アラフォー童貞は〇〇と考える

アラフォー童貞が仕事、時間、性など考えたことをまとめています。

「怒られる」「注意される」のが嫌な気分になる理由

アラフォー童貞のODです。

 

多くの人は日常において、他人から怒られたり注意を受けることがあります。それは子供でも大人でもお年寄りでも関係ありません。子供のいたずらにガミガミと言うお父さんだって、会社では上司からガミガミと説教されています。その上司だってお客さんからのクレームにペコペコと頭を下げておりますし、そのクレームを出していた人だってご近所さんからゴミ出しの仕方が間違っていると不満を言われることだってあります。

 

年齢、性別、立場、場所、環境・・・これらは一切関係なく、誰もが「怒られる」「注意される」ということを絶対に経験するのです。

 

昨今では、学校でも会社でも教育の方針として怒るということをしない、という話を耳にしました。それは怒るということが教育においてメリットがなく、それどころか学ぶ意欲を阻害したり、修得スピードを落とすといったデメリットがあるということが分かっているからです。確かに、先生や先輩から怒られながら何かを教えてもらっても、怒られないようにしようという意識が強くなってしまい、今自分が何を学んでいるのか分からなくなります。結果として意味のない失敗を繰り返し、そのうえ失敗について怒られたり注意されてしまうので悪循環に陥ってしまいます。

そして、私たちは怒られたり注意されると、委縮したり悲しい気持ちになったりします。人によっては反発することもあるでしょうが、いずれにせよ嫌な気分になるのは間違いありません。

 

ところで、私たちはなぜ怒られたり注意されたりすると、嫌な気分になるのでしょうか? 「怒られたら嫌な気分になるのは当然だろう」「注意されて嬉しい人なんていないよ」と反論されてしまうかもしれませんが、それを明確に考えたことはあるでしょうか? ・・・おそらく、怒られた原因や注意してきた相手の人間性などを考えたことはあるでしょうが、その手前の嫌な気分の理由までは考えたことはないはずです。

 

というわけで、少し考えてみました。とはいえ、科学的根拠やら心理学的なんちゃらはなく、あくまで個人の考えであることをご了承ください。

 

怒られたり注意されたりすることで嫌な気分になる理由は、大きく分けて2つあると思います。それは「社会的立場の危機」と「自分の危機」です。

 

1つ目の「社会的立場の危機」は何も難しい話ではありません。いわゆる評価が落ちるとか嫌われるとかいうことです。しかし、社会と言う集団に属さないと生きていけない人間にとって、特に所属している集団から悪い評価を下されたり、人間関係として距離を置かれるようになったら、それは自分がおかれている環境内における自分の立場を脅かすことであり、引いては生命の危機となります。

・・・というと、何だか大袈裟な感じはしますね。それはそうです。現代という文明が発達している時代で、かつ他人の目を気にせず社会資源を活用すれば、評価が悪くても嫌われても単独でも何とか生けます。しかし、所属している集団の規模や相手の立場に関係なく、私たちが他人からの評価や嫌われていないかを気にしてしまうのは、それは原始時代から備わっている生命維持の仕様に他なりません。原始時代においては集団から悪い評価を下されたり、嫌われようものなら、食べ物ももらえず住処を追われて生きることが出来なくなるため、集団の中における社会的地位を何とか維持する必要があったのです。

その社会的地位を維持しようとする仕様があるため、怒られたり注意されたりすると、自分の評価が下がったとか嫌われたとか思ってしまい、それが潜在的に「このままでは生きていけなくなるのでは」という恐怖心となって、嫌な気持ちを湧き上がられせて「何とかせねば」と体が緊張してこわばってしまうのです。

 

2つ目の「自分の危機」も難しい話ではありません。誰もが自分が意図をもってやっていることや無意識でやっていることに対して、他人からダメ出しされたら嫌なものです。自分は良かれと思ってやっていること、自分はこれまでの人生で常識としてやってきたことを急に否定されたら、それはもう自己否定されたことと同様です。何なら自分の人生そのものが無駄であったかのような錯覚に陥るかもしれません。

このようなときに出る反応としては、「え、自分のやり方は間違っていたの? 間違っていないと思っていたのに・・・自分はダメな奴だ」という自己否定を重ねるのが1つです。あるいは「は? 自分がやってきたことが間違っていたなんて思いたくない。これまで自分はそうやって生きてきたんだ。無駄なんて思いたくない!」という反発も1つの反応もあるでしょう。

いずれにせよ、自分と言う存在を否定されたのですから、嫌な気分にならない人はいないはずです。ただ、それだけの話なのです。

 

つきつめると、怒られたとき、注意されたときに起こる嫌な気持ちの正体は、結局のところ「ただの反応」ということになります。それを私たちは理由もわからずに嫌な気持ちになっているのです。言い換えると、怒られたり注意されたこと、そして嫌な気分に対して重要視することはあまりないのです。

もちろん、怒られたこと、注意されたことに対して自分自身を鑑みて検討することは大切です。自分でも気づかった態度や考え方を改善したり、視野を広げるチャンスにもなります。しかし、嫌な気持ちという反応を何とかしようと落ち込んだり、相手にくってかかったりする必要はないのです。この点をご理解いただけたら幸いです。

 

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

 

「謝罪」とは誰のためにあるのか?

アラフォー童貞のODです。

 

「口は災いの元」とか「言えばいうほど」という言葉があるように、自分の考えや意思を伝えようすればするほど、それを聞いている相手に伝わらなかったり、どんどん印象を悪くしてしまうものです。

例えば、仕事でミスをしたり友人との約束を忘れたりしたとき、多くの人が言い訳をしてしまうと思います。しかし、周囲からすればミスはミスだし、友人からすれば約束を破られたという認識です。いくら自分なりの事情や言い分があったとしても、それこそ言えば言うほど相手は不信感を抱くようになります。

 

言い訳しなくなるときは、明らかに自分に過失があるときです。自分を正当化しようとするモードに入る前に最初は「すいません」「私の落ち度です」「約束を忘れてゴメン」と素直に謝りましょう。まずは謝罪でストップし、相手の反応を伺いましょう。

注意点として、言い訳もよろしくありませんが、謝罪したあとすぐに「次からは~」「今後は~」などと言わないほうが良いです。言いたい気持ちは分かりますし、再発防止としての解決策を示す姿勢は大切です。しかし、謝罪の後に矢継ぎ早に伝えてしまうのはよろしくありません。相手への誠意というよりも、自分の落ち度を早く解決したいと思われてしまいます。(というか、実際にはそうなのでしょうが)

 

大切なことは、まずは「自分が間違っていた」という姿勢を、シンプルな謝罪の言葉で伝えることです。そこからは相手の言葉を待つのです。こちらに抱いた思い(不快感や怒りなど)を発してもらうのです。悪いのはこちらなのですから、そこから先は相手の気持ちを発散してもらうための時間としましょう。自分が間違っていたという態度を示したのだから、そのくらいは覚悟しなければいけません。

 

謝罪の目的は、やってしまったミスをチャラにすることではありません。

不愉快な思いをさせた相手から、許しを得ることでもありません。

自分の気持ちを晴らすためでもありません。

 

むしろ、自分のやってしまったことを謝罪という言葉にすることで受け止めてることです。そして、不愉快な思いや怒りや悲しみを与えてしまった、その相手の感情も受け止めることなのです。

 

人間は社会というお互い様の関係で生きているため、本能的に謝罪の意味をちゃんとしっております。だからこそ、下手に言い訳したり自分解釈な理由を言ってしまうと、相手から「ああ、この人は私との関係をその程度に思っているのか。じゃあ、私のいる社会とは違う存在なのだな」と思うことで、次からは「もういいよ」と壁を作られてしまうのです。営業マンなどで言えば出入禁という扱いです。

 

では、どうすればいいのかというと、誰もが分かっているはずです。悪いと思ったらすぐに謝罪をして、自分の非を認めましょう。それは「ごめんなさい」「すいません」「申し訳ありません」という言葉から始まるものであり、それがすべてです。あとは相手から許しを得ることも考えず、相手の気持ちをひたすら聞くようにしましょう。それが正しいあり方であり、社会というお互い様の関係で生きるためのコミュニケーションのカタチなのです。

 

このように書いていて思ったのですが、「謝罪会見」というのは一体誰に向けているのでしょうね。新聞記者さんたちがカメラのフラッシュを焚いて、何かしらをしでかした当人を責めたてるというは、それで何を成そうとしているでしょうか・・・まあ、本記事では深くは言及しないことにしましょう。

 

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

 



世間が「嫌い」であっても、自分は「好き」でいい。その逆もしかり。

アラフォー童貞のODです。

 

インターネットで情報を集めやすくなり、かつSNSなどの個人で情報発信ができる時代において、特定の分野やモノ・人などに対して「好き」「嫌い」を共感しやすくなりました。例えば、「こんなの好きなのは自分だけかも・・・」と思っていたら、意外に自分以外にも好きだと思っている人がいることも分かります。あるいは「これがムカつく!」と思ったことに対して検索すると、決して数は多くはないけれども、同様の感情を抱いていることを知ることもできます。

一方で「自分がこんなに好きだから(嫌いだから)、きっと自分以外にも好き(嫌い)に思っているに違いない」と思って、スマホ片手にインターネット上の情報を漂ってみるものの、自分が望んでいるような情報が得られないこともあります。

 

このように書いている私自身、よくあります。それはインターネットというデジタルの世界だけでなくリアルの世界でもあります。例えば、職場の人たちは話したくないと思っているお客さんであっても、私は話していると楽しいと思うお客さんもおります。反対に、周囲が楽しそうに話す業者さんであっても、私は何となく好きになれないと感じることもあります。

「好き」「嫌い」の例えとは少しズレますが、専門書や知識を修得する目的の本を買ったときに、何だか読みにくい・頭に入りにくいと感じたときに「もしかしたら、ネット上の評価も良くないかも」と思って、某通販サイトのレビューを見てみると「こんなに分かりやすい本は初めてです」「同じテーマを取り扱っている本はたくさんありますが、これが一番です」という高評価が多いと、心の中で「あれま」とガックリしてしまいます。(まあ、これは私の理解度や知識量が悪いだけの話ですが・・・)

 

このように、世間や周囲の「好き」「嫌い」といった評価と自分が抱いている評価は異なることがある、と思ったほうが良いのです。そして、そういうことがあったとき、自分自身の感覚がおかしいと思ったり、世間の考え方が間違っている、といった判断もしなくていいのです。

これはよくある「人それぞれでいい」という話ではありません。世間の評価と自分の評価が違うという事実がある、というだけの話です。そこには、世間と自分の違いや差に対して「善と悪」という区分もありません。

 

例えば、自分が恋焦がれている異性がいたとします。その人が「料理ができる人って素敵」と言っていたのを耳にして、今までやらなかった料理を練習しようとする努力のは良いことだと思います。意中の人の考えや好みに近づこうとするのは、至極当たり前のことです。

しかし、その人が「料理は濃い目が好き」「塩気が多い食べ物がいい」という言葉を耳にしたとき、自分は薄味が好きだったり健康管理の一環で塩分控えめにしているとしたら、そこで自分も無理に好きな人の好みの味には必要はありません。好きな人は濃い味や塩分が多めの食べ物が好きであり、自分は薄味や低塩分の食事スタイルである、という事実があるだけです。そのままで良いのです。「薄味好きな自分はダメだ」とか「塩分多めの食事スタイルに慣れよう」なんてしたら、体を壊してしまい恋愛どころじゃなくなります。自分は自分で良いのです。

 

このような考え方は、恋愛や食事の好みだけではありません。人間関係相手でも、仕事の考え方でも、趣味でも、生き方でも同様です。そして、色々と聞いたり調べたりした結果、その価値観や好み・嗜好などが自分一人だけの考えであったとしても、落ち込んだり反発したりする必要はありません。極端に人に迷惑をかけたり、礼節に背いた考え方でなければ、私はそのままで良いと思います。

そのうえで、もしも「ああ、あの人は自分と嗜好が違うな・・・でも、試してみても良いかも」と思ったならば、それはそれで良いのです。そして、そこから「ああ、こういうのもアリだな」とか「自分の考え方は違っていたんだな」と気づいて、自分の中の評価や嗜好を変えるようになっても良いのです。もしも、他人から「前は〇〇が好きって言ってたのに、今は嫌いなの?」と指摘されても、臆することなく「ああ、そうなんだ」と返答すればいいだけです。別に自分の価値観の変革を他人にあーだこーだ言われる筋合いはありません。「好き」「嫌い」の基準が変わったという事実があるだけです。

 

「自分の好き(嫌い)」は「世間の好き(嫌い)」とは限らないこと、一方で「自分の好き(嫌い)」は「世間のすき(嫌い)」と違っても問題ないこと、とご理解いただければ幸いです。

 

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

 

「自分の頑張りを知って欲しい」と思うほど苦しくなる

アラフォー童貞のODです。

 

人が頑張っている姿を見ると勇気を貰います。自分も頑張ろう、落ち込んでいる場合じゃない、まだまだやれるはず・・・といったようにモチベーションにつながることもあります。それが回り回って、スポーツ選手や芸能人、企業家などの著名な方々もまた、うまくいかない時期などに「〇〇さんが頑張っている姿を見て、自分も頑張ろうと思いました」というファンレターや感想などを貰うと、また頑張ろうと奮起するという話もよく聞きます。

誰かが頑張っている姿に誰かが感銘を受け、それを受けて別な誰かも頑張ろうと思う・・・という循環ができるのは素敵な話だと思います。このような循環はたくさんあれば世界は幸せになるでしょう。

 

・・・と、良い感じで記事を負えたいところですが、このようなエピソードがあるためでしょうか、「頑張っている姿を誰かが見てくれているはず」という思い込みが多くの人に潜在的にあるように思うことがあります。それは「こんなに頑張っているのに報われない」「努力をしても実らない」「色々と提案をしているのに全然採用されない」「人よりも多く仕事をしているのに評価されない」・・・このような、頑張っているのに認められないといった不平不満が、いつの時代もあちこちに存在しているからです。

このような悩みを抱えている人たちに対して「あなたの頑張りは誰かがきっと見ているはずだよ」「多くの人は知らなくても、身近な人があなたの頑張りをちゃんと理解してくれている」といった優しい(?)言葉を語る人がおりますが、個人的には無責任だと思っております。だって、そのような言葉をかけるのは、頑張りを認められないと悩んでいる当人の頑張っている姿を、直接的に見ているわけではないから言えるのです。本当に理解しようとするならば、その人の頑張りを間近で見ようとするはずです。

 

一方、「誰かがあなた(自分)の頑張りを見てくれる」ということはあります。しかも、特定の誰かや少数の誰かだけではなく、割と多くの人が頑張りを見て知っているものです。しかし、頑張っている当人は誰からも頑張りを見られていないと思っておりますし、評価もされていないし認めてもらっていないと嘆いております。これはなぜでしょう? ・・・それは、頑張っている人が見てほしい「頑張っている自分の姿」と周囲が見ている「頑張っている自分の姿」が異なっているからです。

 

例えば、自分はプレゼン資料を作成するまでの苦労(資料集め、インタビュー、分析、休日出勤や残業など)という意味での頑張りを見てほしいのに、上司はプレゼン資料をパラパラとめくって「お、いいじゃん。じゃあ、今度のプレゼン頑張ってね」とだけ言って終わったら・・・おそらく自分としては「え、それだけ? もっと言うことがあるでしょう?」などと不満が残るでしょう。

しかし、このように客観的に見ればご理解いただける通り、別に上司も悪気はないですし、ちゃんと結果としての資料も評価しております。しかもプレゼンに向けての応援もしております。上司は上司なりに評価しているのです。そこに至るまでのプロセスだって全く知らないわけではないでしょうし、プレゼン資料の内容を見れば努力や苦労したことだって分かるはずです。

それでも、プレゼン資料を作った自分としては、認めて欲しいところ・評価してほしいところは、結果ではなくて頑張ってきた自分なのです。何なら、残業してプレゼン資料を苦心しながら作っている最中に上司から「いつも遅くまでお疲れさん」とか「こんだけの膨大な資料をよく集めたな」とか言ってくれたらば、上司や周囲も「頑張っている自分を見てくれているんだ」と安心できたのかもしれません。

しかし、残念ながら上司も含めて周囲の人たちも同じことを期待しているものです。誰もが自分を見てほしいですし、誰もが自分のことで精一杯です。言ってしまえば、他人の頑張りなんて見ている余裕なんてないのです。そのうえ、同じように「みんなに頑張っている自分を知ってほしいな」と思って大変アピールをしたり、自分の有能性を喧伝しようとわざとらしく知識や技術をひけらかしたりする人だっております。

 

頑張っているところを見てほしいという気持ちは分かります。このように書いている私だって承認欲求は当然ありますし、自分が知っていることやできることを評価してほしい気持ちはあります。しかし、アラフォーという年齢になって仕事で全体を把握する立場になると、周囲の人たちだって大変なことも知っております。ご家庭がある人だって大変ですし、他にも部下を取りまとめて頭を抱えている人だっております。ご近所トラブルにまきこまれたり、友達と喧嘩をしちゃった人だっております。それぞれの人生があり、それぞれが自分を認めて欲しいものです。それなのに、私だけが子供のように「頑張っていれば、それを周囲は見てくれるはず」なんて思うのはバカバカしい話です。

 

認められたい気持ちはあって問題ありません。むしろ自然なことです。しかし、あまりそれを他人に強制するものではないことは理解したほうが良いです。ときどき「お、最近頑張ってるじゃん」とか「この間の〇〇、君がやったんでしょ? ありがとう」とか言われたら「見てくれたんだ、うれしい」と思うくらいで終ればいいのです。物足りないかもしれませんしもっと賞賛されたいのは山々でしょうが、それくらいで満足したほうが人生は気楽に生きれると思います。

 

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

 

「自分の好きにやらせてもらえない」「評価されない」のには、ちゃんと理由がある

アラフォー童貞のODです。

 

誰しも周囲から良い評価をして欲しいと思うものです。これは人間には「社会的欲求」「承認欲求」などといった集団や他者から認めてもらいたい欲が備わっているからです。客観的に見ると面倒くさいと思われる欲ではありますが、この自分以外の人たちから認められたいという原動力があるからこそ、個人のモチベーションになったり、新しい発想が生まれたり、文明が発達してきたとも言えるため、認められたいという欲というのはあながち馬鹿にはできません。

 

とはいえ、認められたいという気持ちばかりアピールしても、それはただの駄々っ子です。他者から認められるためには、やはり適正な評価基準や社会通念に則った結果や成果を打ち出すことが前提ということを忘れてはいけません。どんなに自分が「これは世間が驚くだろう」と思ったところで、それを見た人々が「ふーん」で終ればそれっきりです。場合によっては見向きもされず、認知すらされないまま終わることだってあります。

これは非営利団体で地域活性を目的に活動されている方から聞いた話なのですが、日本にはすばらしい技術を持っている人たち・会社はたくさんあるけれど、全体的に認知度が低いというのです。この原因は色々あり、例えば世間への発信の仕方や技術の活用の場の選定を誤っているといったことが挙げられます。そのため、情報発信の仕方をアドバイスしたり、その技術を活用できそうな分野と結びつけすることで良い方向に前進するのだそうです。もちろん、いわゆる成功と呼ばれるまでにはそこから時間と労力はかかりますが、視点を変えることで認知度が上がったり、日の目を浴びなかった技術が良い評価につながるということは、決して可能性として低くはないのです。

 

さて、その一方で高い技術力があり、情報発信のやり方や他分野との結びつきによって成功の道が見いだせそうにも関わらず、全く前進しないこともあります。言い換えるとモノは良いのに、なぜか世間から好評価も得られないし、その前に認知すらされない状態のまま廃れていくことがあるのです。

この理由は明確です。これは世間に認知して欲しいと思っているのに、それに対して有識者やアドバイザーなどの周囲から助言があるにも関わらず、「いや、自分には自分のやり方があるから」「自分のやりたいようにやらせてくれ」と突っぱねる、という人がいるからです。

 

時々、世の中の商品やサービス、エンターテイメントなどを見て、「何でこんな商品を出したんだ?」「何でこんな変な作品にしようとしたんだろう?」と思ったことはないでしょうか? その前後につくのはおそらく「せっかく、ちゃんとした商品(作品)を出す力量があるのに・・・」と言いたくなることもあります。

このような現象は色々な場面で見られます。要は個人のスキルはあるはずのに何故か成果が出ない人、みたいな状態です。しかも、そのような人に限って自己主張が強く、自分のやり方の正当性を押し通そうとし、それを評価して欲しいと切望するのです。

 

つまり、

「自分の考え方が正しいので、その通りにやらせてください」

「私のやり方でやった結果に対して、良い評価してください」

と言っているのです。

 

いやはや、嫌な感じですね。こんな人が部下や後輩にいたら、さぞかし面倒臭いことでしょう。・・・しかし、このような人は割と少なくありません。

実際、上記のようなことを言う人はいないものの、打ち合わせなどをしていると、目的を達成したり、チームを円滑にしようとするためではなく、自分の考えを採用してもらおうとすることが目的になっている人は存外におります。というか、どんな人でも社会という人間の集団で生きている限り、大なり小なりそのような態度や言動をとってしまうものです。もちろん、このように書いている私自身だってあります。

 

しかし、大抵の場合は多数決で却下されたり、上司や先輩の判断で見送りにされたり、無理に押し通そうとしてもうまくいかなかったりすることで、その時は納得できなくても後から「あの時の自分の考えは間違っていたな」などと気づき、そして学んでいくものです。「自分のやり方でやらせてくれ、そして評価しれくれ!!」というのは大袈裟だとしても、自分の考えに固執してしまうというのは自然なことなのです。大切なのは、うまくいかなかったときに何を学ぶかなのです。

 

そもそも、「自分のやり方でやらせてくれ」ということは、それなりに責任を負うことでもあります。多数決で却下されたり、上司や先輩の判断で見送りされることに不服を抱いて反論する人も少なからずおりますが、そのような態度をとる前に少し考えてみてください。それは「自分のやり方でやって、その過程の一切を引き受けたり、トラブルがあったときに迅速に対応したり、求められていない結果に至ったときに全ての責任を負えるのか」ということです。

 

自分の考え方が通らなくて不満や不服を示すことが多い人は、自分のやり方や考え方が採用されるということと、それによって良い結果が出て周囲から評価されることしか考えておりません。辛辣なことを言うと、プロセスや責任は他人任せに思われているから、その人のやり方や考えが採用されないということを自覚するべきなのです。本当に実力と責任がある人ならば、周囲も「この人の考えならば任せてもいいかも」「よし。こいつに好きにやらせてみて、うまくいかないようならばフォローしてやろう」と思われるものです。そう思われないということは、その人のスキルというよりも、日常の振る舞いなどに問題があるとしか思えません。

 

さて、話が長くなり恐縮ですが、何が言いたいのかというと「自分の好きにやらせてほしい」「それを評価してほしい」というならば、まずは日常における態度や姿勢づくりから整えることが第一と思って下さい。それは挨拶や言葉遣いなどは当然のことながら、まずは相手の求めていることに応じることが前提です。それはつまり、乱暴な言い方をすると「自分の主張をする前に、まずは相手の言い分を聞け」「まずは相手の言うとおりにやってみろ。話はそれからだ」ということなのです。

 

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

 

自己肯定感やポジティブ思考というのも、それなりに疲れるもの

アラフォー童貞のODです。

 

自己肯定感を持つことが大切、ということをテーマにした本をちらほら見かけます。

何でもかんでも自己否定するよりはマシだとは思いますが、かといって何でもかんでも自己肯定しようとするのも何だかなーと思います。

 

そもそも、心が疲れていたり気持ちの行く先が分からなくなったりしている人が、無理に「こんな自分でもオッケー」と思おうとするのは結構しんどいと思います。しかし、自分の苦しみを手放したかったり、生きているのがつらいという状態を何とかしよう思っているからこそ、自己肯定しようとか自己肯定感を高めるといった考え方に惹かれてしまうのです。

 

そうして、メンタルケアの本を読んだり動画を視聴して「よし、自己肯定感を高めよう」「自分は自分でいいんだ」と奮起するものの、しばらくすると「また部長に叱られた・・・自己肯定感どころじゃない」とか「他の人たちができていることが上手にできない・・・自分はダメな奴だ」といった状態に戻ってしまいます。

 

メンタルケアのトレーニング法は世の中にたくさん出ておりますが、多くの人が勘違いされているのは「即効性がある」と思っていることです。「自己肯定すれば生きやすくなる」「自己肯定感を高めれば人生はうまくいく」と期待する気持ちは分かりますが、それなりに時間は必要です。もしも、自分が抱えている苦悩が一瞬で解消できる方法がるというキャッチフレーズを見かけたら眉唾物と思って下さい。それはドラッグのようなもので、即効性がある=大きなデメリットを有したもの、と危険察知してください。

 

それに、現代にいては自己肯定という言葉でしょうが、少し前までならば「ポジティブ思考」という言葉もありました。ポジティブに考えよう、前向きに考えよう、みたいな色々な言い方はされておりましたが、結局のところ自己肯定と何ら変わりありません。ポジティブ思考だって、悩んでいる人が前向きに考えたところですぐに気が晴れるなんてことはありません。「思考」と名前がついているくらいであり、「思考」というのはちゃんとした基礎とトレーニングや習慣があって定着するものです。これも即効性もなければ、すぐに自分の考え方や生き方が大きく変わるものでもありません。

 

改めて誤解なきようお伝えしますと、自己肯定やポジティブ思考を否定しているわけではありません。本記事でお伝えしたいことは、このような自己肯定なるメンタルケアやポジティブ思考なる考え方などというのは、慣れない人がやったところで疲れるだけで終わることが多い、ということを理解してほしいということです。

メンタルや考え方を変えるということは、自分そのものを変えるということです。理解できない勉強に頭を使っているとき、脳内では新しい回路が構築されていきます。筋トレだって負荷をかけて筋繊維を破壊して超回復により強化されます。その過程においては当然、「やったことのないことをやる」という行動に対しての疲れが生じます。そうして、慣れない事をやっているうちに内容を理解したり効率的な身体の使い方を修得していき、次第に疲労感も減少していきます。

 

これはメンタルや考え方だって同様です。今まで自己肯定なんてあまりしたことがない、ポジティブに物事を捉えようとしてこなかったのに、急に慣れない自己肯定やポジティブ思考をすれば疲れるのも当然です。やったことのないことをやるため、最初のうちはうまくいかないのも当然です。そこまで自己肯定やポジティブ思考に大きな力はないのです。あくまで考え方は行動による繰り返しの慣れと修得されていき、それがいつしか生きやすさや苦しみを手放している結果となるだけなのです。

 

・・・何だか身も蓋もない話で恐縮ですが、では現状においてものすごく苦しんでおり、時間をかけて自己肯定やポジティブ思考に慣れるなんてことはしたくない、どうにかして欲しいという方はどうすれば良いのでしょう。

 

もういっそ「ネガティブでいよう」と思ってはいかがでしょう。

 

と言っても、ネガティブ思考にも良い面があるという意味ではありません(ネガティブ思考の有用性もありますが、本記事では割愛します)。そもそも、自己肯定やポジティブ思考などに期待する人は、ネガティブな考えをしてしまう自分が嫌であり、そんな自分だから人生がうまくいかないと考えている節があります。

しかし、それはネガティブな自分や後ろ向きな考え方だけが原因ではない可能性もあります。例えば、現在進行形で取り組んでいる物事のやり方が非効率であったり、古臭い考えだったり、周囲の話を聞かずに独りよがりで進めていたりしてはいないでしょうか? そのような状態を放置しているから、うまくいかないのであって実はネガティブ思考うんぬんは関係ないこともあります。

 

そのため、ひとまずはネガティブな自分のままでいいのです。さらに無理な自己肯定やポジティブ思考もする必要はありません。やるべきことは思考ではなく、うまくいっていないことへの原因と対策だけです。ときには周囲に「頑張ってもうまくいかないんですけれど、非効率なことがあれば教えてください」と聞いてみるものありだと思います。そうして、教えてもらったことに対して忠実にやることで、ネガティブとかポジティブとかいう別なところでの原因が見つかることもあります。

ちなみに私はうまくいかないのは思考法ではなく、それなりの理由や原因があると思っているので、あっさりと周囲に「自分のやり方はこうだけれど、うまくいかないので変なところがあれば教えてもらえますか」とお願いしちゃいます。ポジティブだのネガティブだの考えているよりも、その原因をハッキリさせたほうが有益だからです。

 

人生がうまくいかないのは考え方というもの1つですが、そこだけに注目しすぎて「考え方を変えなければ」とばかり考えているのも苦しいものです。ときには「自分はネガティブだ・・・それはそれとして、具体的なやり方を変えてみよう」という視点も持ってみてはいかがでしょうか。

 

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

 

自分に都合のよい情報は「正しい情報」とは言えない

アラフォー童貞のODです。

 

現代は分からないことがあると、スマホ片手に検索エンジンで気軽に知りたい情報を得ることができます。このような状態に対して「インターネット上で見ただけで知った気になって、実物を見たり実際にやってみたりしない」という、知識だけの経験不足を危惧する声もあります。

まあ、このような考えは理解できないわけでもありません。私も仕事で指導する立場ではありますが、インターネットで検索してばかりで一向に行動に起こさなかったり、ちょっと検索すれば出るような情報を得意げに紹介したり、こちらが「で、これを君はやってみたの?」と聞くと「いえ、やってみてはいないですけれど、こうして他の人がやっているので」と日本語は理解できるけれど、話が噛み合わない人もおります。

きっとこのようなタイプの人にとっては、インターネット上で既にやっている人がいたり、多くの人が実践してみてうまくいっているのを見つけたりすると、それは自分がやってみたことがなくても自分の経験と見なしたり、「正しい情報」と思い込むのでしょう。このように書いている私自身も似たような思い込みをするので、決して強くは言えません。

とはいえ、インターネット上にある情報というのは、企業や団体・機関などの公式情報ではない一般人たる個人が発している情報であっても、それは1つの考えや知見であるので有用だと思っております。それらに対して多くの人がアクセスしたり、アクセスした人たちが情報を活用して有用性を感じる割合が多ければ多いほど、それらの情報に信憑性が高くなるというのは理屈は合っていると思います。

 

しかし、注意しないといけないのが、アクセス数や有用性を実感した人の数が多いからといって、それが自分にとって「正しい情報」であるとは限らないということです。これは言い換えれると、自分が検索エンジンに入れたキーワードをもとに出た検索結果が上位に表示されるからといって、自分にとって「正しい情報」とは限らないということです。これはインターネット上にある情報を知っただけで知った気になるな、という言いたいわけではありません。数の多さは情報の信頼性につがなるかもしれないけれど、その情報ははたして、自分が得たい目的に正しく適合しているか? ということをちゃんと判断してほしいのです。

 

そもそもインターネットに限らず、人間が何か情報を得たいと思うときは目的があるはずです。そして大抵の場合、自分の中にある「こういう結果になってほしい」「自分はこう思う」に対しての「自分の考えを証明する証拠があればいいな」という意識が働きます。つまり、表面的には「正しい情報」を探す行為をしているのに、自分の考えを証明してくれる情報ばかりを探す状態になってしまうのです。検索の仕方も資料の探し方も、聞き取り調査をする場合も、自分にとって有利になるような裏付けのとり方をしやすくなります。そうして「ほら、こんなに自分の考えを証明する証拠が揃ったよ。だから自分の考えは正しいんだ」となってしまうのです。それはインターネットで検索するときは特に顕著で、自分の考えを立証してくれるようなキーワードを入れるものですから、それはそれは自分が納得する検索結果が上位に出てくるのも当然となるのです。それは果たして「正しい情報」と言えるのでしょうか。

 

ここで重要なのは、自分の考えを証明するために本当に重要なのは、自分の考えを否定する考え・裏付けです。自分の考えを否定したり、真っ向から反対の意見を突き刺してくるような情報と向き合い、それらすら論破できたならば、自分の考えは(ある程度)正しいと言っても良いかもしれません。

しかし、そうはいかないのが人間です。自分の考えを立証する情報をせかせかと探しているところに、自分の考えを否定するような情報が現れようものなら、目を背けてしまうのです。自分の期待する情報には公式だろうと個人の考えだろうと何でも飛びつくくせに、否定や反対意見の情報へは「まあ、こういう考えもあるよね」「あくまで個人の考えでしょ」と情報として不採用にしてしまうのです。

 

このように私たちは情報を入手しやすくなった時代に生きているものの、自分の考えを立証してくれるものにはウェルカムなのに、そうではない情報に対しては曖昧な態度を示すのが人間です。これはどうやら、古代ローマにおいて広場で賢人たちが議論を交わしていた時代から変わっていないようです。つまり、本当に大切なことは情報の質や量ではなく、それを求める人間のあり方や情報を受け取った人間の姿勢なのです。

 

もしも、自分にとって明確な目的があって情報収集をしたとき、それが「正しい情報」かどうかの判断をするならば、自分の考えを立証するものよりも、自分が成すべき真の目的を果たせるかどうかを基準にすることをお勧めします。

 

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。