アラフォー童貞は〇〇と考える

アラフォー童貞が仕事、時間、性など考えたことをまとめています。

興味の対象が広くないということは、浪費をしないということ

アラフォー童貞のODです。

 

疲れているときのストレス発散とか頑張った自分へのご褒美とか言って、特に緊急性も必要性もあるわけでないのに、ついつい衝動買いをしてしまうことはないでしょうか?特に欲しいというわけでもないのに買ってしまい、場合によってはそのまま開封せずにいることもあります。

これは疲労やストレスが溜まっているため、判断力や自制心が下がっているからということもあると思いますが、それ以前に問題はお店に陳列されている商品を目の当たりにしたときの自分自身の興味や嗜好にあります。

 

例えば、陳列されている数多の商品を見た時に「目移りする」「どれにするか決められい」となることはありますが、100種類の商品が並んでいるからといって、100種類すべてに興味が向くことはありません。そのうちの数パーセントくらいだと思います。アイドルだって、アニメのキャラクターだって、たくさん人数がいたとしても全員が大好きで、全員のグッズを買うことはなく、いわゆる「推し」に焦点を当ててグッズを買うはずです。

 

さて、衝動買いの話に戻すと、陳列された100種類の商品から10種類の商品に興味があるとしたら、さらに10種類の商品から自分のお財布(ときには預金も含めて)と相談して買う商品を選択するのが普通でしょう。もし、100種類の商品すべてに興味があったとしたら、お金だって足りませんし、そこから何を買うかという選ぶ時間も足りません。

 

つまり、興味の対象が多ければ多いほど、自分が興味があるものが一気に提示されればされるほど、私たちはお金や時間、エネルギーを消費してしまう事になります。・・・これは「浪費」であり、人生において浪費は避けるべき行為の1つです。

よく人生は興味があることが多いほど充実すると言いますが、興味が多ければ多いほど欲望が増えるということであり、商品を買うときのような迷いが生じやすくなります。むしろ、人生は浪費に該当する欲望や迷いは少ないほうが充実します。

 

では、本記事のような場合はどうすればいいのかと言うと・・・

「興味の対象を絞る」ということが、浪費を抑えるということになります。

 

このように思ったのは、ここ1年以上ニュースなどの小さな情報を見るのをやめて、テーマを絞って本や雑誌などの長文から、まとまった情報を得るようになったことに由来しています。たしかにニュースを見ない習慣になる前も本を読むことはしてましたが、本を買うときに「この情報もいい」「あのテーマも興味がある」と言っては、あちこち乱読しておりました。・・・しかし、この読書スタイルだとテーマが散らばってしまうため、なかなか情報や知識が身につきにくく、結局本を読んだだけで終わってしまっていました。

しかし、テーマや絞ったり、興味が小さいレベルのテーマを排除するようになってから、「これは別の本にも書いていたな」「同じテーマの本と意見は違うけど、この考えもありだな」といった抽象性と転用性がしやすくなりました。

本の読み方も変わり、あれも買ってこれも読むよりも、興味のある1冊や興味の統一された本を幾度も読んだ方が、本を買うお金も少なくなりますし、内容を深掘りすることができるので、乱読するよりも充実感は高いです。

 

ここで「何でも興味をもったほうが良い」と言われるかもしれませんが、それは若い人に限った話だと思います。年齢を重ねるにつれて大切なのは、興味を増やすことよりも、興味を絞る作業です。また、新しい興味が湧いたら、それまで興味をもっていたことを減らす作業も大切です。

何も老化した考え方を提案しているわけではありません。年を重ねるということは、選択と集中ができるようになるということであり、いい年の大人が何でもかんでも興味をもって手を出すという考え方は、少し幼稚であると思うのです。

また、年齢を重ねるにつれて、どんなに努力を重ねても肉体の衰えやエネルギーの消費量は増えていきます。興味をもっただけ活動するには限界があります。そのため、興味を絞って集中して楽しむほうが、充実できるはずです。(若い人はエネルギーがあるうちは、何でもやっておけばいい、というのはこのあたりにあります)

 

本記事は、興味の幅を狭めるということではなく、興味の対象が広ければいいという話ではないということを言いたくてまとめましたが、すべてのものに興味をなくして仏様のようになれというわけではありません。いつまでも「好奇心」をもちつつも、そこで限られた時間とエネルギー、そしてお金をどう投資するかを選別していくのが、特に現代では大切ではないか・・・と思っている次第です。

 

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

 

 

なぜ時間の浪費と分かっていても、ダラダラとポルノを見てしまうのか?

アラフォー童貞のODです。

 

ムラムラしたときに限らず、男子というのはポルノを見ては簡単に欲情できます。さらに現代では、スマホなどで性的な単語を1語2語入れるだけで、自分好みのポルノに簡単にアクセスすることができるうえ、画面上に数多くのエロサムネが表示されるので選び放題です。そうしてムラムラが収まらずに自慰行為を済ませたあと、ふと気が付くと想定以上に時間が経過していた・・・なんてことがあった男子は多いのではないでしょうか。しかも、射精したあとは賢者タイムと呼ばれる状態になるため、そこに至るまでの時間を無駄だと感じるものです。

もちろん、ムラムラしてきたから抜こうと思ったり、ずっと禁欲をしてきたから今日は思う存分発散したい、等と思ってお気に入りのAVなどを準備してことに臨む人もいるでしょうが、いざ事を始めるとやはり「ここで出していいかな」「もっと別なところで出そう」などと思って、射精を先延ばしすることもあります。

 

このように考えていくと、不思議なものです。自慰行為はムラムラ感や性欲を発散しスッキリすれば達成されるのならば、とっとと射精してしまえば良い話です。それを先延ばしにしてまで、「もう少し・・・」「まだ抜きどころじゃない・・・」と思うのは何故でしょうか?

 

一見すると、スマホやパソコンを手に取り、ブラウザを起動してエロ単語を入力する・・・といった工程を経ているくらいのだから、一見するとポルノを眺めて「どれで抜こうか?」などとあれこれ見ている間は、自分の意思をもあった行動・選択をしているように見えます。しかし、ポルノを見始めてしまうと、明らかに脳は合理的な判断をするために選んでいるわけではありません。

仕事でA社とB社のプレゼンを聞いて、双方の提示するコストや実績などを比較するように「私が一番興奮を高める事ができて、いきおいよく射精し、さらに満足感が得られるためのポルノはどれだろう? 可能ならば、私の性癖にマッチングするものが望ましいのだが・・・」なんてことを、脳は考えません。もう理性はすっとんで、脳はすっかり麻痺してより気持ちよくなれる材料を探すことしか考えません。

考えていることはせいぜい、「もっとエロいものはないか?」「これもエロいけど、いきおいよく射精できるエロがまだあるはずだ」とムラムラ・シコシコしながらポルノを求めるのです。

 

また、人間は優柔不断な生き物であり、日常においても損得勘定で生きております。特にインターネットという環境により色々なものを比較しやすい時世のため、いつまでも比較できてしまえます。すると、決定しながら失敗と成功を繰り返す過程を繰り返すよりも、立ち止まって比較をし続けている状況が楽に思えるようになるのです。

損はしたくないし得はしたい。しかし、そのいずれかの結論が出るのが怖いし、比較や選択を続けている間は楽な状態なので、本当は短期集中で決めたほうが全体的に見れば良いと分かっていながら、いつまでもダラダラしてしまいます。小さな情報を集めているのが必要なことだと言い聞かせながら、自分が求めているテーマからズレていき、いつのまにか時間が過ぎるてしまうのです。そうして時間をかけていたのに、何も得られないと分かっているのに、不毛な時間を浪費しては我に返ったときに後悔をするのでしょう。

 

ではどうすればいいのでしょうか? ダラダラと時を過ごして後悔しないようにするための具体的なアクションはなんでしょうか? 

・・・まず、時間の過ごし方の考え方は「その場にとどまる」か「その場を去る」の二択しかないということを念頭に置いて下さい。

 

ポルノに対して「その場にとどまる」という選択をするならば、ポルノによる脳への刺激と自慰行為による性的興奮と快楽を得る事はできるし、射精によるスッキリ感も得られます。しかし、不毛な時間を過ごしたと後悔するということを念頭に置いて下さい。

反対に「その場を去る」を選択した場合は、ポルノや自慰という分かりやすく魅力的な快楽は得ることはできないけれど、不毛な時間を過ごして後悔するという気持ちはなくなります。また、この選択をした場合は他のことに時間を活用できたり、心身のエネルギーも節約することができる、というメリットがあります。(要はオナ禁をするということです)

 

どちらかを選択するのかは、私も含めて自分自身です。どちらにもメリットはありますが、失うものが大きいのは「その場にとどまる」を選択して時間と体力を浪費することであることは分かるはずです。それが嫌ならば、とっととスマホとパソコンを閉じて、かつティッシュ箱も隠したうえで、とっとと寝ることをお勧めします。

 

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

分からないことがあっても、すぐに調べようとしなくていい

アラフォー童貞のODです。

 

便利な世の中で、知りたい知識や問題解決の方法などをインターネットを通じて簡単に手に入れることができます。グーグル検索という総合窓口もありますし、スマホという手のひらサイズのツールも誰もが持っております。

 

しかし、私は知らないことや気がかりなことがあっても、あまりインターネットで調べるということはしていません。確かに好奇心や知識欲は私にもありますが、その都度調べたり、検索したりすることはしておりません。

その時期に取り掛かっているテーマの中で何度も出てくる単語や知らないと話が進まない知識などは調べますが、分からないと思ったらすぐに調べずに、ひとまずノートにメモしておいて、別枠で分からないことを調べる時間を設けて調べるようにしています。

また、調べる段階になって「別にこの単語は知らなくても困ることはないな」とか「なんでこの知識を知りたかったんだろう」と思うならば、別に不要だと判断して、調べる対象から外すようにもしています。

 

分からないことがあるたびにパソコンやスマホを手に取って、その都度グーグルなどで検索して調べていると、キリがありません。特に集中して取り組んでいることがあるのに、ちょっと気がかりだからといってグーグル検索にかけていては、それまで取り組んでいたことへの集中力も途切れますし、調べた後にまた元通りに集中しようとしても、時間とエネルギーを消費してしまいます。その情報を知らないとこれ以上は進まないというケース以外は、調べることは後回しにするべきです。

 

「後回しにすることは悪いことだ」「モヤモヤを解決しないと集中力が落ちる」「調べたいと思ったことを忘れるのが嫌だ」・・・このように思われるかもしれません。私もかつてはすぐに調べる習慣をもっていましたので、これらの気持ちもよく分かります。そして、今でも好奇心や知識欲はありますので「知りたい!」と思う気持ちは常にあります。しかし、かつてと違うのは、今は情報を吟味して調べているという点です。そのために、メモをして、時間をおいて調べる機会を設定していることです。「知りたい!」「なんだろうな、これ」と思っても、一度スパンを設けることにより、本当に自分にとって必要な情報や知識かどうかを振り分けするのです。

 

これを繰り返していると、徐々に「ああ、これは自分にとって必要なことだな」「最新情報だけど、今の自分には重要じゃないから見なくていいか」というフィルタリングが構築されていくのです。すると、次第に自分にとって必要な情報や知識だけ知ることに集中することができますし、余計な情報を調べる時間は節約できるので、日常生活において時短が可能になります。これもある種の効率化と言えるのかもしれません。

 

よく「無駄なことはない」と言いますが、それは得られた情報を何かしらで活用しようとする習慣がある人くらいです。つまらないと思って授業を流して聞いたり、営業先のお客さんの雑談を早く終わらないかなーと思ってしまう人などは、たくさんの情報を得たとしても無駄に終わります。しかし、大多数の人は日常で起きる出来事をどうでも良いのと扱ってしまいがちです。日常の出来事は、ネットで得られる知識などよりも貴重なものがたくさんあります。そんな貴重な日常をないがしろにして、わざわざインターネット上にある他人の意見に身を委ねてしまうこともまた無駄なのです。

 

つまり、大多数の人たちは、どんなにインターネット上で知りたい情報、何となく気がかりな知識を得たとしても、無駄にしてしまう可能性が高いということなのです。

それよりだったら、せっかく貴重な時間を使って調べものをするならば、自分にとって大切な情報や必要な知識に対象を絞って調べたほうが良いのです。そのためには、気になったらメモをとり、時間を空けて自分にとって大切なのかを吟味し、そこで残った知りたい情報だけを徹底的に掘り下げて調べるのです。

または、スマホなど手軽に調べものができる時代に逆らうようで何ですが、一定期間、疑問に思うことがあっても意図的に「調べない」ということをしてみるのもアリだと思います。いまや分からないことを逐一ネットで調べるのは、一種の欲望であるように思います。知識欲を控えるということもまた、現代においては禁欲なのかもしれません。

 

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有能な個人よりも、組織のシステムのありかた【現代における組織論】

アラフォー童貞のODです。

 

人は誰しも周囲よりも有能でありたいと思うものです。あるいは、周囲から有能であると評価されたいと思うものです。

 

それ自体は自然なことです。人間は社会という共同世界において、人と同じであることを潜在的に望む一方で、自尊心を満たしたいものです。そこで、自分が得意なことや大好きなことで評価を得たいと思い、大々的またはそれとなくアピールしてしまうこともあります。それは人間という生物として仕方ないことなのです。

 

しかし、それはあくまで個人の範囲ならば問題ありません。チームや組織においては、迷惑になることがあります。特に、現代は個性の時代と言われるものの、結局は人と人とが協調しなければ生きていけません。そのための分かりやすい形が会社や団体といった「組織」です。

 

特に現代においては、組織のなかで1人のスキルが突出して高くても、あまり意味はありません。組織自体のレベルが高いのならば問題ありませんが、一定の水準を維持することが求められる組織においては、高いスキルの個人もそれに準じる必要があります。

 

例えば、三ツ星レストランのシェフが、チェーン店のファミリーレストランで働いたとします。いくらシェフがレベルの高い料理を作れたとしても、自分の料理を振る舞いたくても、ファミリーレストランのレシピに準じなければいけません。もしかしたら、バイトだって調理をしているかもしれませんが、そのバイトと同じ動きをしなければいけないのです。なぜならば、お客さんはファミリーレストランの味を欲して来店しているからです。どんなに美味しくて感動するような味を提供したとしても、ファミリーレストランにはそこまで求めていない、というお客さんだっているはずです。しだいに足が遠のく結果になることだって考えられます。

また、1人のレベルが高いことによって生じるのは、スタッフ間で提供するサービスにバラつきが生じることです。上記の例で言えば、三ツ星レストランのシェフがファミリーレストランで美味しい料理を提供したとして、他のスタッフにも作れなければ意味はありません。そもそも、チェーン店であれば、一定の研修によって、どのスタッフでも同等の味を提供できる仕組みがあります。いくらレベルが高くても、その体制を崩すというのは組織の一員として問題行為です。

 

ここで「体制」という言葉を使いましたが、つまりは組織の「システム」です。チェーン店のファミリーレストランにおいて、一定の研修とレシピと材料に統一性を持たせるのがシステムです。このシステムがないと、お客さんは来るたびに味や具材の違う料理を口に入れることになり、なんだか落ち着かなくなります。また、ファミリーレストランで働くスタッフだって「今日はどう作ればいいのだろう・・・」と不安になります。そこで「よし、ここで俺の腕の見せ所だ!!」「何でもいいから、できるものを出そう!」というわけにはいかないのが現代です。

 

また、組織のシステムを整えることにより、ミスや失敗が生じたときに再現性をしやすいため、その後に活かすことができるメリットがあります。それが個人の力によるものであれば、一体何が要因かわからなくなるばかりでなく、いつまでも同じミスや失敗が生じる羽目になります。

 

最後に。

私たちは有能でありたい、ヒーローになって一目置かれたいという願望があります。しかし、それはプライベートにとどめておくべきです。共同生活である社会、組織においてはシステムに準じるほうがメリットや恩恵が大きいのが現代です。個性を出すのはほどほどにして、組織のシステムで丁寧に物事を遂行するほうが価値があります。そのなかで、ほんのちょっと光るのが個性、と言えるのではないでしょうか?

 

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「そんなことも知らないのか」は大抵、どうでもいいこと

アラフォー童貞のODです。

 

「そんなことも知らないのか」

「こんなの常識だろ」

「ニュースも見てないの?」

 

・・・なーんてことを言ってくる人がおります。

これは主に時事ニュースや流行りものを知らないと、まるで鬼の首を取ったかのように、こちらにクリティカルヒットでも浴びせる様に責めてくるのです。特に昨今では感染者数やクラスターの発生した場所などを知らないと、まるで非常識のような奴を見るかのような表情をされます。

 

しかし、上記のようなことを言われても、大して気にしなくて良いです。

なぜならば、「そんなことも知らないのか」と言う人が言っていることの大半は、実際にはどうでもいいことだからです。

 

その人にとっては重要なこと、知っていて当然なことかもしれないけれど、自分にとって重要でないと思うならば、それは確かに重要でないのです。もちろん、相手は「このくらい知っておかないと、後々困るよ?」と親切心で言っているという場合もありますので、「教えていただいて、ありがとうございます」「勉強不足ですいません」と返せばいいです。

 

とはいえ、最新ニュースや流行りものを逐一把握するような人や、自分が知っていることを他人も知っているべきと思っている人とは、距離を置いたほうが良いです。確かにそのような人たちから得られる情報もありますが、その手の人らはメディアの発する情報におぼれやすいので、最新の情報と正しい情報と他人の意見がごっちゃになっていることがあります。そのような人から得られる情報は、本当に意義のあるものかは疑問があります。

それに、最新情報や流行りものというのは一時的なものです。下手すると、午前に得た情報が同日の午後になったら情報が逆転していることだってあります。なるべく最新情報に更新することは大切ですが、いつも「新しい情報はないか?」と常に更新機能をフル起動するには自分の時間とエネルギーの浪費になるだけです。

 

 

また、最新の情報を知ったところで、私たちにできることはほとんどありません。感染者数を知ったところで、個人ができるところは手洗い・うがい・他人とは距離をおく、不要不急の外出は控えるくらいです。悲しい事件や憤りを感じるようなニュースを知ったところで、感情を乱すだけで具体的なアクションはできません、というか大抵の人はアクションすら起こさないはずです。世界情勢なんて、ほぼ100%自分とは直接関係ないことばかりです。現地に行ってもできることは全くなく、有意義なのはせいぜい自分の財布から募金や寄付するくらいです。

 

誤解のないようにお伝えしますと、情報は全くいらないというわけではありません。私はニュースをほぼ見ない生活を送って1年以上経っていますが、自分の興味のあることや仕事などに関わる情報は得るようにしています。しかし、ネットや雑誌を活用するときは、信頼性があると吟味した1~2つの情報源に留めています。だらだらと「別のところでは何と言っているかな?」なんて見ることはありません。

 

基本的には、1つのテーマについて時系列や背景がきちんと書かれている、本を長文を中心に情報を得るようにしています。確かに迅速性には欠けると思いますが、迅速であっても不確実である情報よりは、リアルタイム性に欠けても、ある程度精査が行われている媒体を活用したほうが意義はあります。

 

また、最新を追うことは疲れるだけです。上記のとおり、常にスマホなどを気にかけなければいけませんので、日常生活に支障をきたしたり、本来自分がすべきことが疎かになってしまいます。一方、本や雑誌ならば、情報量が減ることも内容が変わることもありませんので、自分のタイミングで気楽に読むことができます。情報通になりたいわけでなく、情報を確実に自分のものにしたいならば、コロコロ変わる情報よりも、精査された長文をお勧めします。

 

最後に。

「そんなことも知らないのか」と突っかかってくる人の言ってくることは、あまり気にすることはありません。別に馬鹿にするわけではありませんが、その人の言っていることの大半は重要でないばかりか、情報の精度が低い可能性が高いです。このよう人たちは「情報通な自分」を褒めて欲しい、評価して欲しい、という心理もありますので、(少し面倒かもしれませんが)「へえー、知りませんでした。教えてもらえますか?」という聞き手の態度をすれば、コミュニケーションとしては問題ありません。その一方で、自分は本などの、ある程度の信頼性が担保されている媒体を活用したほうが、確実に自分の生活や人生にプラスになります。

 

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他人の遅刻に対して寛容になるべきか?

アラフォー童貞のODです。

 

ときどき「時間に遅れたくらいで怒る人は、程度が知れている」「遅刻ぐらいは許しましょうよ」という自論の方がおります。要は、10分かそこらの遅刻に対して、社会人の何たるかを説いたり、仕事ができない奴などと人間性を批判したりするのは間違っており、その程度の出来事に癇癪を起すような人とは、いずれトラブルになるから付き合わないようにしましょう・・・というものです。

 

この考えに対して、私は半分賛成・半分は否定的です。例えば、10分かそこらの時間に遅れたくらいでは、確かに怒るような話ではありません。癇癪まで起こすのは度を越えておりますし、誰でも事情はあるものです。私だって早めに自宅を出たのに、天候や渋滞などによって到着ギリギリになったり、定刻に遅れてしまうことだってあります。今後、自分もやってしまう可能性あることを他人にNGをつきつけるのは自分勝手というものです。

 

では、遅刻は許すべきことなのでしょうか? 寛容になるべきでしょうか? ・・・というと、それは話は異なります。ここでポイントなのは「時間」というものをどう捉えるかです。「時間を守る意義とは何なのか?」ということが分からなければ、この先の話はちぐはぐになってしまいます。

事前にお伝えしておきますと、本記事ではビジネスマナー的な話をするつもりはありません。管理職の立場にあるものの、社会人だから時間を守るのは当然だろ、信頼関係に問題が出る、といったような不明瞭かつ理にそぐわないことは言いません。

 

さて、「時間」に対するとらえ方は人によって異なります。さらに言えば、その人のそのときの状況や考え方によって変動します。それによって、多少の遅刻は許せるのか、それとも遅刻に対して怒るのかは異なってきます。

 

そもそも、多くの人は時間は有限と分かっていながらも、スマホをいじったり、ネットをダラダラ見ております。学生という勉強をがっつりできる時期に授業をボーっと聞いていたり、会議という色々な意見交換を出来る場なのに「早く終わんねーかな」と思っていたり・・・。一方で、大好きなことは時間がいくらあっても足りないと思うものです。

このような経験は誰でもあると思いますが、興味のない授業や面倒な会議などは、始まるのが遅くなっても別にイライラしたりしないでしょう。何なら時間が短くなってラッキーと思うかもしれません。先生や重役が遅れてきても、遅刻に対して寛容になれるでしょう。

反対に、自分の大好きなことに関しては、遅くはじまる、時間が短くなる、という事態になると大なり小なり感情的になるものです。例えば、せっかくの誕生日パーティーなのに頼んだピザがいつまでたっても届かなかったり、好きなアーティストのライブの開演が遅くなったら、きっとモヤモヤするはずです。時間が長くなればなるほど「一体、何してんだ!」となるのではないでしょうか?

 

さらにここで、別な見方もあります。上記の例で授業や会議は開始が遅れたり、時間が短くなっても怒らないとお伝えしましたが、これらは立場のある人にとっては、怒りや焦りなどの感情的になることがあります。例えば、勉強が大好きな生徒や会議でたくさん発言したいことがある人、あるいは徹底的に授業の準備をしてきた先生、段取りを任されている会議の進行役・・・などです。たとえ周囲が開始が遅くなっても良いと思っても、このような人たちにとっては、時間が過ぎることに気が気でなくなるのです。

 

つまり、いくら授業や会議で「遅刻しても許せるよ」と時間や遅刻に対して寛容になったとしても、自分にとって重要な場面になったときには寛容になれなくなる、ということなのです。

例えば、こちらがお腹痛くてトイレのドアの前で待っているのに、トイレの中で便器に座っている相手が時間を気にせずのんびりと排泄をしていたらどうでしょう? きっと「早くしろよー!!」「早くトイレから出て来いよー!」と思うはずです。

 

そのため、遅刻という時間の考え方ひとつにしても、単純に「遅刻に対して寛容になりましょう」「時間を気にする人は駄目な人だから、付き合うのを控えましょう」という二元論で済ませないほうが良いということです。

 

もし、遅刻というものに対して人間関係を気にするのであれば、大切なのは遅れそうになった時、または遅れてしまったときの態度です。例えば、会議に間に合わないようであれば、事前かつ早めに先方に連絡を入れて承諾をいただくとか、遅れてしまったならば言い訳せずに一言あやまる、という姿勢だけ見せれば良いです。それこそ、それで相手が怒るのであれば、もう縁がなかったと思うしかありません。遅刻したのはこちらなのですから・・・。

 

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「正しい自分」を理解してもらおうとしない

アラフォー童貞のODです。

 

新しい取引先などと初対面で会話をするとき、ときどき「管理職だから、現場のことなんて知らないでしょ」的に言われることがあります。要は「お前、何もわかってねーだろ」「こっちのほうが色々知っているんだぞ」とマウントをとりたい感じです。

少しひねくれた考え方かもしれませんが、実際に言葉を交わしていると「別に無理して知ったふりしなくていいから、ちゃんと教えるから聞きなさい」的なことを言われることがあります。このような言い方をするのは、昔ながらの職人気質の人や普段は閉鎖的な空間で働いている人たちに多いように思います。

このような人たちと接していると、冒頭のように直接的に言われなくても「ああ、この人は私が現場の仕事を知らないと思っているんだな」と肌で感じることができます。例えるならば、たたき上げの勤続年数の長い人が、いわゆるキャリア組の若手を馬鹿にするようなものです。

 

さて、私はこのような人たちに対しては、特段何も言わないようにしています。「現場のことを知らないでしょ」と言われても「ああ、そうかもしれませんね。いつも現場で頑張っている人たちに教えてもらう日々ですよ」と笑っています。向こうが私のことを現場のことを知らない奴と思っても、それに気づいたとしても、何も訂正するようなことはしません。

要は「正しい自分はこうですよ」とアピールしないようにしているのです。いくら「正しい自分」を相手に理解してもらおうとして「いやね、私は管理職という肩書ですが、現場にもがっつり入っておりまして、職員らと汗を流して仕事をしているんですよ」なーんて言っても、相手には確実に響きません。

 

なぜならば、人間は自分の考えを変えることが難しいからです。今回の場合で言えば、肩書きなどのちょっとした情報から、私という人間を相手が「この人はこういう人間だ」と決めつけている以上、私が私が思う「正しい自分」に訂正しようとしても、固定されている認識を変えることは困難です。特に、その場ですぐに訂正しよとすることは不可能と思うべきです。

 

「では、そのまま間違った認識をもたれたままでいいのか?」「仕事だったら、その後に影響するだろう!」と反論されるかもしれませんが、ご安心ください。

上記の通り、私は自分が誤解されたままだとしても、意識的かつ態度として訂正することはしません。相手が私のことを現場を知らない管理職と思ったとしても、そのまま話を進めます。相手が色々と教えてくれるならば、とりあえず聞き続けます。何なら知らないことがあったらラッキーぐらいに思います。

 

仮に私が物を知らないと思われたとしても、それを訂正しなかったとしても、その後の仕事に影響をきたしたことはありません。もちろん、最初のうちは現場を知らないとか物を知らないといった評価が足を引っ張ることはあります。しかし、それは仕事を一緒にしている過程で改善されます。そのため、わざわざ「正しい自分」をすぐに理解してもらわなくても、結果的に何の影響もないのです。

もちろん、こちらが無知で知っているふりな態度ならば自然とそっぽ向かれるでしょう。しかし、学習や試行錯誤を日々行っていれば、自分では気づかないうちに積み重ねた実力はにじみ出るものです。すると、相手も「あれ、もしかして色々と知っている人なのでは?」と見方を変えてくれます。わざわざ自分から「こういう知識を知っています!」「〇〇というスキルをもってます!!」と言わなくても、必要なことは過程の中で必ず目につくものです。実際、当初は私個人のスキルなどに疑いを向けていた相手も、途中から「これについて、そちらの意見を聞かせてもらえますか?」と逆に質問を受けるようになったこともありました。

また、仕事やスポーツなどチームプレイの場合、その目的はチーム共通の目的を達成することにあって、個人のあり方を主張したり理解してもらうことではありません。だからこそ、相手に勘違いされたからといって、その場で訂正する必要もなければ、急いで相手に理解してもらおうとする必要もないのです。

 

このように、他人に自分を誤解されたとしても、その場で無理に「正しい自分」を理解してもらおうとしなくても良いのです。仮に相手に誤解されたままだとしても、誤解しているその人も、誤解された自分にとっても何の影響もありません。いつしか、お互いに忘れてしまいます。

そう思ったら、無理に「正しい自分」を理解してもらおうと躍起になることもせず、沈黙に徹して、その後に挽回するか、または忘れてしまえばいいじゃん、と思えないでしょうか?

 

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。