アラフォー童貞は〇〇と考える

アラフォー童貞が仕事、時間、性など考えたことをまとめています。

「自分は大丈夫だろう」の結果、「なぜ自分がこんな目に・・・」となる理由

アラフォー童貞のODです。

 

災害や事故、病気や怪我といった自分では予期やコントロールできないこと、仕事やプライべート、他人とのいざこざなどの不条理なことなど、私たちは様々な出来事に意図せず遭遇します。これらは可能な限り避けたいものですし、分かっている限りで対策や予防をしておきたいと思っております。そのために私たちは生物のなかで「予測」という機能が発達し、様々な危機やリスクを回避することができます。

 

しかし、その一方でこのような世の中の動きに対して、私たちは心のどこかで「自分は大丈夫だろう」と思うものです。例えば、暴風警報が出ていたのに事前に食材を貯蔵しておかずに、「近所のコンビニがあるしいいか」と思ったり「自分の地域はちょっと風が強いくらいだから、たぶん大丈夫だろう」とたかを括って、コンビニに行けない規模の暴風になったり、うっかり外出して身動きがとれなくなることもあります。

昨今の感染症については言わずもがなです。あちこちで対策はとられていますが、本当に感染したくなければ、不要不急の外出はしない、人ごみにはいかないという基本に忠実になればいいだけです。そこまでしても感染する人がいるのに、イベントなどの自分の楽しみを優先した結果として感染したならば、そこにもまた「自分は大丈夫だろう」という気持ちがあるからでしょう。

 

ある程度のリスクを承知で不利益を被った人もいうでしょうし、むしろそちらの方が同情の余地があります。しかし、自分一人くらいならば問題ないだろうという気持ちだけでリスクを度外視したのに、予測や考えが甘かったのに「なぜ自分がこんな目に・・・」と思うならば何も言えません。それは、その当人の責任に他ならない話です。

このように書くと、まるで切り捨てるように聞こえるかもしれません。しかし、別に切り捨てる気持ちもなければ、甘い考えだと非難をするつもりもありません。それは、そのような見込みの甘い人達と関わらないから、という意味もありますが、別な理由もあります。

 

そもそも人間は危機に対して予測する機能がある、ということは上記でお伝えしましたが、それだけではありません。それとは別に、人間は「危機から目を逸らす」という機能もあります。これが「自分は大丈夫だろう」という考えになるだけです。

例えば、電車やバス、飛行機に乗ってどこかに行こうとしましょう。これらはある程度の事故を引き起こす確率があります。朝の満員電車で脱線事故が起きたら・・・、高速バスがガードレールを突き抜けて崖から落ちたら・・・、飛行機が落下したら・・・。このようなことを考えて、これらの乗り物に乗れない人は少数ながら一定数おります。しかし、その他の人たちは当たり前のように交通機関として利用して日々を送っています。

いちいち乗り物に乗るときに「今日は事故に遭うかも」とか「今回は何も起きなかったけれど、次は分からない」などとは思わないはずです。何なら朝の満員電車なんて、寝ぼけて改札をくぐって、急ぎつつもぼーっとしながら電車に駆け込むものです。これは電車や飛行機といった乗り物のリスクを理解しつつも、そこから目を逸らしているからに他なりません。何ならリスクを意図的に忘れていると言っても良いでしょう。

しかし、この「危機から目を逸らす」という機能がないと、私たちは何かしらの社会活動や経済活動をすることはできません。言い換えれば、ある程度のリスクに目をつぶらないと、妥協しないと、私たちは生きていけないということなのです。

 

そのような状況が慢性化しているのが現代です。様々な分かりやすいリスクもあれば、むしろ分かりにくいリスクにさらされているため、私たちは常にリスクから目をそらしている状態なのです。そこでいざ、本当のリスク(災害や事故など)の可能性が現れたとき、「自分は大丈夫だろう」と思ってしまうのです。リスクへの察知力が敏感すぎるのも困りますが、なさすぎるのも困りものです。その結果として、リスクと分かっているものに実害として遭遇したとき、「なぜ自分がこんな目に」となってしまうのです。

 

人間は文明社会の中で守られて生きています。今さら自然のような危機意識を持てと言われても無理な話です。しかし、心のどこかで「自分は大丈夫だろう」と頭をかすめたならば、「なぜ自分がこんな目に」と後悔している自分を想像してみましょう。あるいは「あのとき、リスクに対してちょっと撤退してみたのは正しかった」と安心している自分を想像してみると、正しいかは分かりませんが間違っていない判断はできるはずです。

 

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マナー違反をやめさせる方法【考察】

アラフォー童貞のODです。

 

 世の中には、やってはいけないこと、やらないほうが良いことが常識でも法的でも明白なのに、それらをやっている人は一定数おります。例えば、赤信号を無視すること、夜中に路上で騒ぎ立てること、ゴミのポイ捨て、そして歩きタバコなどがあります。それらは国や地域、業界や職場、あるいは発言力のある個人の価値観で決まることもありますが、ちょっと軽めに言えば「マナー違反」というやつです。

 

 マナー違反が少なくなれば、その分世の中はとてもよくなるはずです。極端なことを言えば、マナー違反という言葉がない世界が本来あるべき姿なのかもしれません。

 そもそも信号機だって、譲り合いの精神があればいらないはずです。ポジティブに考えれば、譲り合いばかりでは進まないので、信号機で順番を統制しているとも言えますが、我先にと自動車をかっ飛ばして走るドライバーがいる限りは必要でしょう。夜中に騒ぎ立てなければ、多くの人たちは明日に向けて静かに睡眠をとれますし、自分の時間を過ごせることもできるはずです。ゴミのポイ捨てをしなければ、少なくとも身近な地域の環境破壊は予防できるでしょう。また、「割れガラス理論」というものがあるように、人間は悪い環境をそのままにしておくと、非道徳な行動をとりやすくなる心理もあります。マナー違反は自分だけでなく他人にも、ひいては社会にも悪影響しかないのです。

 

 さて、マナー違反はなくならないのでしょうか。・・・残念ですが、個人的な考えとしてマナー違反はなくならないと思っております。しかし、ゼロにできないものの、1つでも少なくすることはできると思います。では、どうしたら少なくできるのでしょうか?

 とはいえ、このような話をしたところで、マナー違反に対しては様々な法令、制度、対策、啓蒙活動がすでに行われています。それも長い歴史において、星の数ほどなされております。しかし、有効打につながるには至っていないのが現状です。

 この現状についてアラフォー童貞がぼんやり考えてみたのですが、例えば歩きタバコについては、子どもが火傷をする事故があり、そのリスクを注意喚起するCMなどが流れましたが効果があったようには思えません。それは、歩きタバコする人自身が火傷をするわけではないですし、気持ちのどこかで「人がいないところならいいや」とか思っているものです。そのため、どんなにリスクを映像として魅せられても他人事なのです。まるでドラマや映画を見せられて「ふーん」となっているくらいです。

 一方、タバコそのものを吸う人を減らそうという取り組みもあります。ここでも受動喫煙のリスクを提唱してもタバコを吸っている人には関係ないです。また、「タバコを吸うとこんなに肺が真っ黒になるよ」という画像をポスターや、国によってはタバコのパッケージにしたという事例もありましたが、結局は効果はなかったそうです。それどころか、真っ黒な肺を見てストレスを感じて不安をやわらげようと、さらにタバコをたくさん吸うようになったというケースもあったそうで、悪循環です。

 

 健康管理でもそうですが、このように人間は悪習慣に対してデメリットを伝えても、それをやめるきっかけやモチベ―ションになることはないのです。ハッキリと断定していいのかわかりませんが、私は仕事で管理職としてスタッフ教育をしておりますが、「●●したら良くないよ」「××したら~~なデメリットがある」と伝えても、決して素直に応じたり、それをきっかけにハツラツと仕事に取り組むという人は少ないように思います。本人だって悪習慣を自覚しているし、デメリットしかないということも理解しているものです。そこに追い打ちをかけるように指摘されては、反発心しか生まれないものです。

 

 じゃあ、マナー違反や悪習慣へはどう対処すればいいのか、それらをやっている人にどう伝えればいいのか・・・という話になりますが、非常に難しい問題です。それは、結局は「しないメリット」を理解することに尽きるからです。

 

つまり・・・

「赤信号になったらスピードを上げて無理に走らない」と事故のリスクは防げる。

「夜中に騒ぐことをしない」と、近隣住民が穏やかな一夜を過ごせる。

「ゴミのポイ捨てをしない」と、近所の環境と治安は維持される。

歩きタバコをしない」と、火傷する子供もいないし、タバコの煙にむせる人もいない

 

・・・と言った具合です。ひどく当たり前でしょうが、「しないメリット」は「しない」ことでしか理解できません。結果がわかりません。しかも厄介なことに、その結果というのは保険やセキュリティ対策のようなもので、結果や数字で見えるものではないので実感しにくいものです。せっかく我慢したのに、しないメリットを実感できないのはイラつくと思いますが、マナー違反や悪習慣をしない先にあるものというのは、それこそ「平和」という1人1人しか感覚でしかわからないことなのです。

 

 もし、「しないメリット」が掴めないならば、自分がやっていると思われるマナー違反や悪習慣をしないことによって、身近な人がどこまで穏やかに笑顔で過ごせるのかをイメージしてみてください。反対にマナー違反や悪習慣をしてしまった自分を見た、身近な人(大好きなタレントさんでもいいです)に尊敬されるのか、それもと距離を置かれるのかを想像してみてください。・・・答えは明白なはずです。

 

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「あの作品のパクリだ」と非難したものほど、案外ハマる

アラフォー童貞のODです。

 

1つのものが大流行すると、その類似の作品や商品、サービスなどがたくさん出ます。これは海賊版という意味ではなくて、いわゆる「これはあの作品のパクリだな」とか「またこのパターンか」とか「どこかで見たことがある」といった印象を受けるものです。

 

企業というのはビジネスでやっているので、流行したものに乗っかりたいと思うのは分かっているけれど、その流行したものが自分が大好きなものであればあるほど、何だか自分の中にある何かを汚された気がします。独占欲が強い人ならば、自分が大好きなものが唯一無二であってほしい、今後も同じものは出ないでほしい、などを思いたいものです。

私自身、学生時代に好きだったロックバンドが上位のランキングに出るたびに、「このロックバンド以上の音楽は出ないのだろ」と思ったものです。それがいつまでも続くと思ったことも今にして思えば、何とも視野が狭くて世間知らずな話です。しかし、その当時の私にとっては、それがすべてだったのです。そして、新しいロックバンドが登場するたびに「このメロディーはあのバンドと同じだ」とか「あのバンドを意識しているな」などと呆れておりました。

 

しかしここで、しばらくすると面白い現象が起こります。いつの間にか自分が好きなロックバンドを真似したと呆れていた、その対象である新しいロックバンドの音楽を聞くようになったのです。別に元々好きだったロックバンドに飽きたわけでなく、自分の中にできた新しい好みとして聞くようになったのです。・・・何だか言い訳がましいですが、今の私ならば「人間、そんなものだよね」と思えます。

というのは、人間というのは何だかんだ言って、自分の好みに対して類似品を求めるものだからです。新しい刺激が欲しいと思っているくせに、同じパターンやルーティーンに安心感を抱くのです。むしろ、新しいものよりも、何度も手に取ったことがあるものを選んでしまいます。

 

企業というのは、このような人間心理を知っているからこそ、1つのものが流行すると似たようなものを商品やサービスとして打ち出すのです。最初のうちは非難や抽象されたとしても、消費者が流行しているものに執着すればするほど、いつの間にか類似品のものに目を向け始め、気が付いたらそれらにも興味をもってしまうのです。

 漫画やアニメ、スマホゲームなどは顕著な例だと思いますが、もはやジャンルも設定もキャラクターデザインやコンセプトだって、これまで見たことのない斬新な作品というのはありません。そこで多くの視聴者やユーザーは「また見たこのパターンか」「はいはい、あれのパクリね」なんて思いつつも、「このキャラクター好きかも」とか「このゲームシステムは懐かしいな」なんて手を出して、ハマります。リメイクものなんて最たるもので、ずっと昔にやったことのあるゲームが出ると「なつかしい」の1つの感覚だけでやってしまいます。これだって、自分の中にある「これ見たことある」「やったことある」に安心感を抱いて興味をもってしまった結果です。

 

つまり、「またこれか・・・」などと、流行ものの類似品に対して嫌悪感を抱く必要はないのです。人間は同じ繰り返しを求める性質があるので仕方ないのです。抗っても無駄です。それよりならば、反発せずに素直に「興味がある」と思って手に取ってみるべきです。

流行ものだって、新しいジャンルだって、言ってしまえば繰り返しの積み重ねから生まれたものです。ゼロから生まれたものはほとんどありません。自分が好きなものをマネされた、と思いたくなる気持ちは理解できますが、しかし、逆もしかりです。案外、お互いに「パクられた」と思っていたり、「このパターンは自分が好きな作品だ」と思っていても、実は自分が好きなもののほうが類似品やパターン化されたものであるということもあります。

著作権という意味での意識は大切ですが、消費者やユーザー、視聴者などは素直に楽しむのが役割です。「お布施という言葉がネット上で使われていますが、楽しんだものに対してお金を払ってその業界が発展することに意義があります。執着心にとらわれて、自分の目の前に現れたものを「またこれか・・・」と呆れている暇があったら、心の中で興味があると思っほうが健全だと思います。

 

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弱音や泣き言の言い方

アラフォー童貞のODです。

 

私たちは愚痴や他人の悪口を言わないほうが良いと知っています。それは周囲や対象の人物を不快にするだけでなく、因果応報というように巡り巡って自分にも悪い影響が音ぞれるからです。これらは悪いことと分かっていても、ついつい口にしてしまうものです。

一方で世の中には弱音や泣き言を口にしてはいけない、と教えられて生きてきた人がおります。仕事やスポーツなどの精神を求められる分野、あるいは親などの大人たちの生き方や価値観によって認識を植え付けられていくのです。特に子供のころに弱音や泣き言は悪いと教えられると、大人になってからもそのような生き方をするようになります。

 

しかし、弱音や泣き言は口にしても良いのです。

むしろ、弱音や泣き言を吐き出すことは、生きていくうえで必要です。

 

泣き言は愚痴とは似ておりますが、ちょっと違います。愚痴や悪口は、自分にとって良くない状況を自分以外の誰かや環境を悪いものとするため、結果的に何の成長も発展性もないどころか、周囲も自分にも悪い影響をもたらします。

一方、弱音や泣き言は自分自身の話です。自分の実力や自分の置かれている状況を口にすることで、自分を客観視することができます。または第三者に伝えることにより、自分では自覚していない問題点や魅力などに気づいてもらえることもあります。仏教などにおける「内観」という自分を知る行為です。

問題点を誰かに話しているうちに、ふと解決策が見えたことはないでしょうか。しかも、その誰かがアドバイスをしたわけでもないのに、です。これは自分が抱えている問題や思いを話すというアウトプットをしているうちに頭の中が整理されて、物事の本質が見えてくるからです。弱音や泣き事も同様で、1つのアウトプット行為なのです。

 

とはいえ、弱音や泣き言なんて言ったら、何だか弱点をさらすみたいで馬鹿にされたり、嫌がられたりしないかと不安になるものです。また、内容によっては取り返しのつかないことになるのでは、と心配にもなります。それならば心の中に抱えておいて、いつか消えるのを待つ・・・というのも考え方と言えば考え方です。

しかし、弱音や泣き言を言っても意外に馬鹿にされることもなければ、嫌がられることはありません。むしろ、自己開示は人間関係を良好にすることもあります。それは「自分に内面を晒せしてくれるなんて、信頼をしてくれているんだな」と思って、逆に好印象をもつようになるからです。

 

また、弱音や泣き言を言うことで取り返しがつかなくなるのでは・・・と思うのも理解できますが、これは伝え方や状況次第です。うまくいけば共感を得られたり他者との結びつきが強くなることもあります。

例えば、仕事がうまくいかなくて辞めたいと思っていることを伝えたいとしましょう。そのまま「仕事を辞めようと思っているのですが・・・」と言っては、相手は困惑してしまいますが、ここで一言添えると弱音や泣き言に対してリカバリーを利かせることができます。私がお勧めなのは・・・

 

「あくまで今の気持ちなのですが・・・」

「最近の自分の状況から、頭で何度も考えてしまうことなのですが・・・」

 

・・・と伝えてみることです。

 

ちょっとズルいですか? いいんです。

弱音や泣き言を言いたいときぐらい、自分勝手くらいがちょうど良いのです。

 

このような前置きをしておいてから弱音や泣き言を言えば、その人がその時点で少し追い詰められていることも理解できますし、いきなり「辞めようと思う」などの最大の気持ちを伝えられるよりも、相手は具体的に何が問題なのかを聞きやすいです。

さらに、仮に辞めようと思ったことを口にしたとしても、その時点の気持ちなので、その後に冷静になってもう少し続けてみようと思ったとしても、そのまま職場にいても違和感はありません。弱音や泣き言を言われた相手だって、「あれから落ち着いたようなだな」とか「たまには話を聞いてあげようか」と気に掛けるかもしれません。(あまり相手に依存してはいけませんが)

 

本記事は、自分の気持ちに押しつぶされたり、感情が爆発しておかしな行動や判断をしないための提案です。当然ですが、しょっちゅう弱音や泣き言を口にする人はうっとうしいので、あくまで時々吐き出すくらいの感覚で考えてください。また、仕事を辞めようと思っているなどは、誰もが思っていることなので我慢しがちですが、本当にダメだと思ったら、その1歩手前くらいで上記のように伝えてみてください。聞き手に迷惑をかけると思いますが、それによって自分の心が救われることもあります。

 

ぜひ、たまにで良いので弱音や泣き言を口にしてみてください。

誰もそれを馬鹿にしたり否定したりはいしないはずですから・・・。

 

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FAX広告はやめてほしい

アラフォー童貞のODです。

 

世情でしょうか、職場への飛び込み営業は減少しましたが、FAXによる営業広告が増えております。割と切実な話として、FAX広告はやめてほしいです。

そもそも、FAX広告は聞いたことがある企業もあれば、ほとんど耳にしたことのないものもあれば、明らかに怪しいもの、セミナーのお知らせなど清濁混合です。清濁といっても、いずれも一方的にニーズのない客層へ強制的に案内をしているわけなのですから、迷惑であることは変わりありません。

 

何が迷惑かというと、まずは紙とインクが無駄です。これらは限りある資源から作られています。そして人間がお金というコストをかけて書類の印刷などのために準備しているのに、それに割り込んで毒にも薬にもならない情報を流しては、裏紙メモになって終わってしまいます。

また、電話と兼用機の場合、忙しいときに電話が鳴るのはかなり迷惑な話です。会社でこのようなFAXとの兼用機を使っているなんて言うと時代遅れと思われますが、まだまだ意外に使っている職場は多いです。それは電子媒体でやり取りできる時代とはいえ、注文受付などごく少数のニーズにも対応できるためには、兼用でもあったほうが良いのだそうです。

しかし、それを知ってか知らずか、下手な鉄砲 数打ちゃあたる方式でFAXとの兼用機の電話に強制的にFAXしてこられると困ります。これは上記のとおり忙しいときに電話が鳴った時に「ピー・・・FAXを受診しますので・・・」というアナウンスが流れるとかなりイラっとするものです。私も他部署でヘルプに入ったときに、電話待ちの案件があったので固唾を飲んで待っていたところ、電話が鳴ったと思ったらFAXだったときのイラッと感は半端でないことを知っています。しかも、送られてきたのが無益な情報だとわかると憤りに拍車がかかります。

 

さて、このようなFAX広告は迷惑とわかっているのに、企業はなぜ送ってくるのでしょうか? それは一定数のレスポンスがあるからでしょう。統計の真偽は定かではありませんが、どこかしらの企業が無作為にFAX広告を送って問い合わせや営業につながるのは1%ほどらしいです。その1%でもすがりたくてFAXを送るのはわかりますが、何だか非効率なような気がします。

 

FAX広告自体を否定するつもりはありません。例えば、ターゲットの範囲が狭い顔なじみの取引先であって、かつ客層が目を通すであろう商品やサービスが明確であるならば、有効であると思います。例えば、毎年うなぎ弁当を注文してくれる会社に対して、夏になるとうなぎ弁当のお知らせをFAXで案内するのはありだと思います。客先だって「そうか、うなぎ弁当の時期かー」ととりあえず興味は示してもらえる確率が高いからです。

特に客層がFAXに慣れ親しんだ時代の中高年の場合、お店などに注文するときに注文書に希望の商品に数字を入れてFAXするだけ、というのは楽なのでしょう。そういう客層がまだ一定数いるので、上記の通りFAX兼用の電話を設置している職場や店舗もあるのでしょう。

このように考える尾、まだまだFAXの活用の場はありそうです。そのため企業がFAX広告をするならば、エリアや客層や商品などの条件を絞ったうえで送ることを推奨します。とりあえず、私の職場はランダムに色々なジャンルの広告がFAXで届くので有効ではありません。営業につながることは絶対にありません。私の職場もFAXは微妙にまだまだ活用の機会があるので、FAXの設定をOFFにできません。だから、送られてくると非常に困りますし、紙やインクのコストも抑えたいところです。 

・・・だからもう、せめてウチの職場にFAX広告は送らないでください、お願いします。職場も明らかにしていないのにお願いしたところで無駄なのはわかりますが、せめて祈らせてください。

 

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「良いもの何か」は自分自身で判断していい

アラフォー童貞のODです。

 

少なくとも20年ほど前は、「良いもの」「そうでないもの」は世間が決めていました。正確にはメディアなどが「これが今は良いものだよ」と流行という形で伝えてきました。そして、世間は「そうか、これが良いものなんだな」と信じて流行に乗っかります。もちろん、流行に乗っからない人は昔も現代も一定数いますが、私が学生のころは今よりも明らかに、メディアが発信している情報を盲目的に信じている人たちが多かったのは確かです。

その証拠の1つに、ランキングやヒットチャートというものが多かったのです。これも現代でもありますが、はやり昔に比べてテレビのランキング番組が少なくなった印象を受けます。それくらい、ランキングを見て流行物を確認して、それが自分にとってプラスになると信じて追い求めたのだと思います。

 

面白いもので、人間は自分が信じたものに過度に評価するものです。ゲームソフトや電化製品、本や漫画、化粧品、ファッションなど・・・今にして思えばおかしなものでも、ときには大金をかけてしまうものです。これは恋愛が典型的な例であり、恋に落ちてしまうとその人のすべてが素敵に見えて、悪いところはどうでもよいくらい、その人のことが大好きになり、寝ても覚めても好きな人のことしか考えられなくなります。信じる力というのはスゴイのです。

 

しかし、現代ではメディアが発信する流行に世間は反応しにくくなっております。むしろ、メディアが発信する情報に疑念を抱くくらいです。それは、インターネットの発達や多種多様な価値観ができる社会というのが大きな要因であり、たくさんの面白いことがタレントさんだけでなく一般の人からも打ち出されますし、ときにはメディアの発信する情報が根拠のないものとして、あっさり暴露されることもあります。

また、現代でもマイノリティーという言葉はありますが、それを追い求めている人たちがいるからこそマイノリティーという言葉が成立するのです。ニーズがなければマイノリティーという言葉すら該当せず、存在そのものが無となるのですから。

 

何が言いたいのかというと、現代は世間やメディアが伝えている流行に乗っかる必要はない、という話ではなく、「良いもの」は自分自身で判断していいと言いたいのです。

もちろんどの時代でも、流行ものや誰か一部の人の趣味嗜好に対して馬鹿にする輩は必ずいます。しかし、それに対して「自分はおかしいのかな」と気にする必要は一切ないのです。世間や他人のあれこれに対して批判しているような人は暇なだけです。批判しているその人自身に何も好きなものがないから、うらやましくてそう言っているだけと思ったほうが良いです。好きなものに夢中になっている人は、他の人が何をやっているかなんて気にしないはずです。何なら、自分が好きなものの話をしたいはずです。

 

同様に、自分が今後どうしたいのかとか、自分が成長したいこと・やりたいことがあったときに、いちいち他人に意見を伺っている暇があったら、1分でも取り組んでみるべきです。そして自分が好きかどうか、良いものかそうでないかを自分自身で判断してもいいのです。

 

自分が好きなものを自分で決めて良い時代です。なんて素敵な話です。別に他人に話す必要ないでしょうが、何かの拍子に周囲に広がったとしても、馬鹿にされたとしても最初はストレスでしょうが、途中でネタにするのは止まるはずです。また、何かのたびに馬鹿にするような輩がいたら「この人はきっと好きなものがないんだな」「人とのコミュニケーションをとるのに、相手が好きなものをイジるしかスキルがないんだな」と思うくらいに考えて、いちいち感情的にならなくて良いのです。

 

別な視点から見れば、他人が好きなものをネタにして笑いを取ろうとする人は、コミュニケーションスキルが低いと考えるといいです。相手の反応によって「あ、この人が好きなものを話題にするのは避けた方がいい」と思ったら避けるべきですし、同じジャンルが好きならばちょっと話題を振ってみて良いと思います。それでも踏み込んでほしくないならば、それ以上は歩み寄らないということも大人の対応だと思います。

 

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「自分には関係のない話」と思うと、心の荷物が減る

アラフォー童貞のODです。

 

私たちは気づかないうちに、心にたくさんの荷物を抱えてしまいます。仕事や家庭のあれこれに対して「別に自分がやらなくてもいいかな」と思いつつも、人間関係などを気にして引き受けてみたり、少しでも話題の輪の中に入ることもあります。そうしないと、自分が仲間外れになってしまう可能性があるからです。

また、現代においては、テレビやラジオからの自然に目や耳に入ってくるニュース、何となく時間があるので見開いた新聞記事やインターネットの情報なども、黙っていても飛び込んできます。特定の情報が更新されたらお知らせが届くように、スマホやパソコンに設定している人もいるでしょう。しかし、すべての情報が自分にとって興味がある内容かと言えば、そんなことはないはずです。どんなに大好きな動画配信者のコンテンツでも、お気に入りの俳優が出ているドラマでも、面白いときは面白いですし、つまらないときはつまらないです。そこで自分がつまらないと思っていても、すべて目を通すというのもファンのあり方という考え方もありますが、実際はつまらないから見ないという選択だってできるはずです。

 

私は好きな動画配信者でも大好きな俳優であっても、心がときめかないものは途中であっても断念することはあります。ホビー系の動画が好きで時々視聴しますが、ホビー系と言っても範囲は広いので、自分には響かないものは無理に見ないようにしています。それならば、それまで知らないジャンルだったけれど、ピンときたものはじっくり見ればいい、楽しめばいいや、というスタンスで見ております。

また、本ブログでも幾度かお伝えしましておりますが、私はテレビやラジオ、新聞・インターネットなどのすべての媒体においてニュースというものを見ない生活を送っております。ランダムに登場する情報は避けて、仕事や興味あることなどの自分にとって必要な情報があれば、書籍や専門雑誌を活用するぐらいです。

このように情報に制限を設ける生活を送ってから、色々な情報に振り回されなくなり、悲しい事故や憤りを感じる事件などによって感情的になることもなくなりました。これにより、自分にとって必要な情報を取捨選択できるようになったっともに、感情による心身の疲労感もなくなりました。確かにニュースに見ないことで情報量は減りました。しかし、現代はあまりにも情報が氾濫しているため、得られた情報が必ず正確なものとは限らないという事実もあります。情報をたくさん得るということが、必ずしも良いこととは限らないということも理解するべきです。

 

これは人間関係も同様です。別に自分ひとりが関わらなくても、話の輪に入らなくても、物事は問題なく進むのです。特に現代人は忙しい日々を送っております。黙っていても(主にどうでもいい)仕事は次から次へと湧いてくるのに、そこに自ら首を突っ込むのは自殺行為と言えます。まずは自分の目の前の仕事ややるべきことに注力するべきであり、そのあとで余裕があったら関わるくらいのスタンスで良いと思います。

 

確かに関わることにより、人間関係は構築できるというメリットはありますが、個人的な見解としてイベント的なことに関わって得られる人間関係というのは一時的に高まって終わります。そのときは仲良くなった気になりますが、そのイベントが終わったり、日常や通常業務などに戻ったときに仲良くなった気のまま接しようものなら、馴れ馴れしい奴になってしまう可能性があります。例えば、飲み会で酔っ払って盛り上がっても、一週間後にその人と素面で再開したときにはテンションは違うはずです。場合によってはお互いの醜態に気まずくなってしまうこともあります。「あんなに飲んだ状態で会話しなければ良かった」と後悔というストレスを抱えることもあります。

また、自分が把握しているジャンルでもないのに口を出すのは迷惑だし、自分が能力が至っていないのにサポートしようとしても邪魔になるだけです。むしろ、何も手を出さないほうが周囲にとってはありがたいことだってあります。

 

・・・なんだか「何にも関わらずに自分の事だけやっていれば良い」というように聞こえるかもしれませんが、そうではありません。ちゃんと「自分に関係ある話かどうか」の基準を設けて置いたほうが良いと言いたいのです。心の中では関係がないと思っているのに人間関係を気にして関わろうとするとストレスになりますし、いざ関わってみると面倒事だったりしたら余計にストレスになりますので、これらは関わらないほうが吉です。一方、雰囲気的に「やってみる価値がある」と思ったり、話を聞いてみて「これはプラスになる」と前向きになれるのでれば、ひとまず関わってみても良いと思います。

大切なのは、自分の日常や社会における役割という荷物を持っているのに、そこにさらに両手いっぱいになる荷物を持って足腰を痛めたり、無駄に疲労するのは避けるべきということです。そのためには、今現在の自分がどれくらいの荷物をもっているのか、あとどれくらいの荷物を持てる力があるのか、持っていく時間に余裕はあるのか、といったことを自己判断できるようになる必要があります。そこで「自分はこれくらいへっちゃら」と思って物事を引き受けて、もしうまくいかなかったり、周囲に迷惑をかけたとしたら、自分の抱えている荷物が予想外に多かったり、自分の実力不足であるということを自覚して今後に活かすのです。

 

このようなことを意識すれば、「自分に関係のある話かどうか」や「自分の実力などから関わって問題ない話か」を判断できるようになります。こうすれば、無理に心の荷物を持つ必要もなく、今の自分の実力に合った生活を送ることができるはずです。それが心穏やかに生きるヒントであると思っております。

 

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