アラフォー童貞は〇〇と考える

アラフォー童貞が仕事、時間、性など考えたことをまとめています。

「情報収集の媒体として、雑誌は適切なのか?」を考えてみた

アラフォー童貞のODです。

 

雑誌という媒体は、スポーツや経済などジャンルごとに1冊としているものもあれば、色々なジャンルを網羅して1冊としてしているものがあり、その1冊の雑誌の中には特集や連載などページ数や記事の枠の大小はあれ、複数の人たちの考えや情報が詰まっております。

かつて私は雑誌を乱読しており、ニュースや新聞などと同様に「たくさんの情報を掻い摘んで得ることができる」「視野を広げられる」などと期待して読んでおりました。

しかし、実際に雑誌で得られた情報を活用したり、自分の思考に落とし込んだり、視野が広げられているかと言えば、決してそんなことはないと思うようになり、読書は日課としつつも、いつしか雑誌をほとんど手に取らなくなりました。

多くの人は雑誌を手にとるとき、情報収集などの目的や面白さといった期待を抱くでしょうが、「あれ、自分は何のために雑誌を読んでいるのだろう」「雑誌を読んでも特に視野を広げられるというわけでない」という、私自身が期待する目的が得られないと気づいてしまったわけです。

 

雑誌は気軽に手を出せやすい媒体ですが、新聞などのメディアと同様に多くの情報を得ようとすると時間はかかりるため、上記のように実際に得られるものが少ないと感じるのであれば、お金や時間などの費用対効果として割に合わないと思ったとしても仕方がないと言えます。

もちろん、全く意義がないというわけでなく、意外な情報に触れられるとか、想定外に好きな有名人のインタビューが載っていたとかサプライズはあるものの、それが頻繁にあるかと言えばそんなことはないため、ランダム性への期待もしなくなりました。

 

何も「雑誌はいらない」と言いたいわけではありません。

あくまで私個人としての、情報への認識と情報収集の範囲が変わっただけの話です。

 

上記のように読書は日課として続けているのは、1人の著者の考えや1つのテーマの情報に1冊の本を通じて集中的に触れることができるからです。(もちろん、雑誌でも1つのテーマを集中的に取り上げているものはあります)

雑誌だと1冊の中で複数の人物やテーマが混在することが多いため、何だか落ち着かなく感じるとともに、「もう少しこの人の話を知りたい」と思ったときに物足りなさを感じてしまうこともあります。

また、ここ数年の個人的な取り組みとして、意図的にニュースを見るということをやめてからというもの、ランダムに色々なジャンルに触れるような「視野を広げる」ということから、特定のジャンルや自分の興味に「制限する」ということに切り替えたことから、雑誌というランダムな情報に対して不慣れになってしまったということも要因にあると思います。

 

とは言っても、ニュースを見なくなったように、雑誌を読まなくなったからといって日常生活に支障をきたすことはありません。

むしろ以前のように「コレとこの雑誌は毎月読まなければ」といった脅迫観念から解放されたうえ、その分のお金もかかりませんし、雑誌を読む時間も削減できました。

その分、自分にとって必要だと思うことや興味あることに集中的に投資できるようになっていると実感しております。

もちろん、雑誌を読まないことへの機会損失もあるかもしれませんが、個人的な感覚として「知りたい人や情報には、いつか必ず出会うもの」というものがあるため、それが雑誌か本かという媒体の違いだけならば、例え出会う時期が遅くなったとしても、私は本を選ぶというだけのことです。

 

改めてお伝えしますとおり、本記事は雑誌を否定するものではありません。

どちらかというと、情報を闇雲に得ようとするよりも、自分自身のあり方を踏まえて「今の自分にとって必要な情報は何か?」を考えたうえで、「今の自分にとって適切な情報媒体は何だろう?」と見直してみてはどうか? というお話でした。

 

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

物語という「心の救い」

アラフォー童貞のODです。

 

読書を日課にしておりますが、「どんなジャンルの本を読むのですか?」「1ヶ月で何冊くらい読むのですか?」と聞かれると困ってしまうことがあります。

それはジャンルで本を選んでいるわけでないことと、その時期に読んでいる数冊の本を1日の中で分けて読んでおり、その数冊のジャンルもバラバラの状態だからです。

例えば、1時間の読書時間があったとして、最初は仕事の本を30分読んで、次に小説を章の区切りまで読んだら、残りは美術や絵本、経済や社会等の時事的なもの・・・といった具合です。

また、一言に仕事の本と言っても、そこから分野や専門に分かれますし、ただ文字を負うだけのこともあれば計算問題に取り組むことだってあります。

さらに余った時間においては上記の通りであり、気分によって変わることもあるため、私自身も何のジャンルを好んで読んでいるのか分からなくなるものです。

もちろん、好みのジャンルは「人間が陥りがちな勘違い」といった日常で気づきにくい視点をもった内容ですが、いつもいつも好みのジャンルや自分がしっくりくる本に出会えるわけではないので、結局のところ日常で読む本はジャンルに偏りが出てしまうのはやむを得ません。

 

しかし、1日の中で必ず物語、フィクションは読んでおります。

何きっかけだったか分かりませんが、いつの間にか現在の読書サイクルの中に組み込まれており、たった数ページでも読んでおくと、その日1日の気分や翌日以降の過ごし方が良くなるものです。

何も「物語に触れないのは損だ」とまでは言いませんが、自身の日常から離れた別世界を覗き見る、他人の視点で物事を見る、自分の現在と類似の出来事から何かを感じ取るという時間があるのは良いことだと思います。

 

たまにアニメや漫画の感想で「こんなの現実的じゃない」と指摘する方がおりますが、そのような方はきっと、自分の毎日が充実しているのだと思います。

と言っても、物語やフィクションを好んでいる人は日常に不満を抱いているだろう、と言いたいわけではありません。(そうなると私もそうなってしまいます)

単純に物語を楽しむよりも、現実に時間をかけたい何かがあるのだろうと推察しているだけの話です。

 

しかし、物語やフィクションの世界を求めている人がいることをご理解下さい。

毎日仕事でクタクタになったり、人間関係にうんざりしたり、それこそ生きているのがしんどいと思っているとき・・・

 

「明日はジャンプの発売日だ」

「今日はあのアニメの放送日(配信日)だ」

「次回はどうなるのだろう、続きが楽しみ!」

「来月はとうとう、大好きな作家の最新小説が出る」

 

・・・という日常のちょっとした楽しみで心を満たすことができます。

それは自分の仕事や人間関係、あるいは生命維持に直接プラスになる効果はないと分かっていても、期待に胸を膨らませることができます。

大袈裟ですが、そのような「日常の楽しみ」「生きるうえでの心の支え」というだけでも、おそらくそれを作者が知ったならば嬉しくなるはずです。

 

また、物語やフィクションを自身の日常とリンクさせて考えたり、その内容や登場人物について”勝手に” "好き勝手に” あれこれ考察したりも妄想することもできます。

何も同人誌やツイッターなどで2次創作として発信しないまでも、脳内では誰も介入することができないファンタジーを繰り広げることができるのです。

それは上司に理不尽なことで怒られたときも、着地点の見えない面倒な雑談に巻き込まれたときも、買ったばかりの服に汚れが付いてしまったときでも、物語やフィクションを通じて楽しい気持ちに、周囲や自分の状況も関係なく、寝る直前まで好き勝手にあれこれ考えて良いのです。

 

このように物語やフィクションというのは、「現実的でない」からこそ、「ありえない」からこそ、私たちの「心の救い」となることがあり、求めずにやまない人々が世界中にいるのです。

 

それに、どの人でも必ずフィクションには触れているはずです。

(この流れで申し訳ありませんが)AVなどのポルノだって、ハッキリ言えば物語でありフィクションでありファンタジーです。

世の男性たちは、日常ではオープンにすることができない、恋人や家族にも言えない性的嗜好という欲望を、フィクションであるポルノで発散しているのです。

AVに対しても「現実的でない」と仰る人がおりますが、そんなことは視聴者も作り手も分かっているからこそ成立している産業であり、そこに突っ込みをいれるのは野暮というものです。

 

話が脱線して申し訳ありませんが、何はともあれ物語やフィクションというものはエンターテイメントとしての位置づけでありますが、もはや世の中の人々にとっては毎日の活力として必要不可欠なものなのです。

 

物語やフィクションに触れているとき、「こんなのばっか見て、現実逃避している自分は駄目だなー」と思うこともあるでしょうが、とんでもありません。

私の場合は小説ですが、週間で刊行される漫画雑誌であっても、定期的に更新される動画であっても、いつ出るか分からない作者の最新作でも、ドラマでも映画でも、(そして欲情するタイミングで触れるポルノであっても)物語やフィクションを楽しみにして生きるということは、それ自体が前向きだと思います。

そして、それらを受けて「あー、面白かった」と独りでニヤニヤしたり、お風呂に浸かりながら思い出して感慨に浸るのも自由自在です。

 

現実に疲れることは生きていれば頻繁にあります。

物語やフィクションを望んで生きたり、たまには没頭して現実逃避しても良のです。。

 

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

何のために「効率化」を図ろうとするのか?

アラフォー童貞のODです。

 

仕事だけでなく、私生活においても効率化を図ろうとする人は少なくありません。

まずはスケジュール帳やToDoリストに予定を書き込み、なるべく無駄なく動いて多くのタスクをこなせるように予定を組みます。

私もスケジュールがたくさん埋まっていること、それらを1つでも多く完遂することで充実できるし周囲からも評価されると考えていたため、徹底的な効率化を目指しておりました。

しかし、とある時期から「こんなにも効率化している自分は、一体何を期待しているだろう?」と思うようになりました。

 

効率化することで、上記のように多くのタスクをこなして自分の充実感や周囲からの評価を得ることであり、かつ時間に余裕ができたら新しいタスクを加えることができる。

そして新しいタスクも完遂することにより、さらに充実感や評価を得ることができる・・・と信じておりましたが、そんな毎日を続けていたら疲れてしまいました。

 

それはよく考えれば当たり前のことでした。

タスクをこなすことで自分にも他人にもメリットを与えることはできるものの、タスクを詰め込めば詰め込むほど自分の肉体に負担をかけるものです。

1日は24時間であり、かつ自分の肉体は1つという誰もが同じ条件において、いくら自分が10個のタスクを消化したくても、誰がやっても5~6個が限界であればそこで諦めるしかありません。

それなのに、「効率化すれば、あと1~2個くらいはこなせるかもしれない」などと考えてスケジュール表とにらめっこしたり、残業という手段によって使える時間を確保した気になって、自分の心身のことは考えない日々を送っておりました。

 

そのような日々によって得られたのは、充実感ではなく疲労感だけです。

仮にその日10個のタスクをこなせて満足できたとして、次の日も同じような気持ちでスケジュールをこなそうとしても、「また昨日のような頑張り方をしなきゃいけないのか」「何だかしんどいな」と思うようになってしまいます。

運動だって毎日同じモチベーションでこなせるわけではなく、あるとき絶好調だったのでいつもよりキツいトレーニングを終えたときは充実できても、その翌日には疲労が出て前日と同じレベルのトレーニングができないものです。

それなのに、できた日を基準にして「もっとうまいやり方があるはず」とか「世の中には自分よりも効率的にタスクをこなしている人がいる」と自分に鞭を打ってしまうがゆえに、そこに待っていたのは心身の故障でした。

 

また、他人からの評価も期待しておりましたが、結局は他人もまた自分自身のことで精一杯であり、頑張っている人がいても評価するほど見ないのが現実です。

しかし逆に言えば、効率化により多くのタスクをこなして充実感を得ているとき、周囲の人たちの評価を気にするものの、その周囲の人たちが頑張っている姿や成果などに目を向けているでしょうか? ・・・少なくとも私は自分のことで精一杯で、周囲がどのような姿勢で仕事や日常を送っているのかまで見てはいませんでした。

となると、周囲に対して「効率化して誰よりも頑張っている自分を見て!」なんて言うのはどうでしょう? ・・・何だか子供じみていて、恥ずかしくないでしょうか。

承認欲求は誰もが持っている感情ですが、そのために誰よりも多くのタスクをこなしたところで承認されないのであれば、いつまで経っても疲労感が蓄積されるだけで、認められないまま悶々とした日々を過ごし、そして壊れる・・・という結果になります。

 

・・・と、改めて「こんなにも効率化している自分は、一体何を期待しているだろう?」と問いかけたとき、それは決して自分を痛めつけたり、他人から得られる見込みのない評価を追いかけるためではない、ということに気づきました。

 

このように書いているものの、現在でも仕事などで多くの数のタスクをこなそうとする思考は治りません。

しかし、効率化を図ることは続けているものの「なぜ効率化するのか」の定義は変わりつつありますし、空いた時間に無理に新たなタスクを入れないことに”慣れる”という改善も自分なりにしております。(このあたりは別な記事でまとめたいと思いますので、本記事では割愛します)

 

効率化という言葉は魅力的です。

自分の生き方を自分の意思でコントロールできている充足感も得られます。

しかし、それ自体を目的にしたり、承認欲求を満たすためのツールにし過ぎてしまうと自分の人生を無為にしかねません。

 

もしも日常で効率化を徹底的にしているのに何故か満たされないならば、少し立ち止まって「自分は何故ここまで効率化しようとしているのだろう?」と改めて振り返ってみてください。

 

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

「若いうちは遊べ」と言われても・・・

アラフォー童貞のODです。

 

「若いうちは遊べ」などと、上司や親戚といった目上の立場の人たちから言われたことはないでしょうか?

私も社会人になってからは周囲から言われたものですが、そのときは「一体何をもって遊びなのだろう?」「この人たちにとっての遊びは何だろう?」と心の中で首をかしげていたものです。

仕事の帰りに上司と食事(という名の飲み会)に同行すると、居酒屋まではまだ分かるもののキャバクラとなると楽しみ方が分からないため「これが大人の遊びなのか?」と思ったものです。

取引先や親戚などから休日の過ごし方を尋ねられて、例えば映画や読書、時間をかけて料理を作っていたなどと言うと「そんな休日でいいの?」「もっと有意義に過ごしなさいよ」「彼女を作れよ」と指摘されたこともありました。

そのような指摘をする人たちの休日はと言うとドライブとか釣りなどであり、そのような過ごし方が彼らの言う「遊び」であるならば、自分の休日の過ごし方は彼らから見て「遊び」とは言えないのは何故か・・・などと疑問は深まるばかりでした。

もっと言えば、そのような指摘をする人に対して、日帰りで旅行したとか、少し遠出して行きたかったお店に足を運んだなど言うと、今度は「独り身はいいよね、好きな時間があって。こっちは家族サービスだよ」「まだ余裕がある証拠だな、仕事を頑張っていれば休日はグッタリ寝ているよ」などと言われる始末です。

 

・・・そこから20年近くが経って思うことは、結局のところ、ことあるごとに「遊び」を推奨してきた人たちは、若い人に自分の価値観を教えて共感して欲しかったり、疲れているときは自分の大変さを伝えたかっただけ、ということです。

このように書くと卑屈な感じがしますが、アラフォーという年齢となり、仕事で役職者として若いスタッフを指導をすることもある身になると、そのようなことを口にしたくなる気持ちは理解できます。

また、私にあれこれ「遊び」を説いてきた人たちをフォローするわけではありませんが、おそらく彼らが「遊べ」と言っていたのは「色々と経験しておきなさい」「体が動くのは今だけだから」などという意味であることも理解できます。

当時は表面的な付き合いや言葉のやり取りだけで受け止めていたので、キャバクラに行くのが遊びとか、休日はインドアよりアウトドアなほうが良いとか思ったものですが、様々なことに挑戦して欲しかったのでしょう。

 

しかし、「若いうちは遊べ」という周囲の助言に対して20年前の時点で思っていたことは、仕事をすること・会社という組織に所属する環境において、それはとても難しかったという本音と事実です。

 

若いうちは体力も時間もあり、そこから色々なことに挑戦できると思われがちですが、年齢問わず時間は誰しも平等です。

そんな全人類共通の条件下で、特に日本の会社は昔から始業時間も終業時間も曖昧でメリハリがついておりません。

若い人に遊びを推奨するならば、最低限として定時で帰る環境が望ましいのに、上司も残っているため帰るに帰れないうえ、実力に見合っているのかどうか分からない業務を担当していることもあり、時間だけが過ぎ去っていったことを覚えております。

また、20年前には携帯電話が普及しておりましたので、職場や顧客などから、何かあれば帰宅後だろうが休日でもお構いなしに電話やメールを平気でする人はおりました。

このような環境とデジタルツールという鎖につながれたような環境で「もっと遊べ」「若いうちは遊べ」など言われても、遊びに集中するなんてことはできませんでした。

 

・・・と、何だか愚痴っぽくなって申し訳ありませんが、私のような経験をされて、遊びという概念に疑問を抱かれた方はいるのではないでしょうか。

少なくとも私は役職ある立場になってから、若い人たちに仕事を通じて色々な経験ができるよう促すものの、プライベートに対して自分の価値観や「遊べ」などと言うことはしませんし、そもそも言いたい欲求もありません。

もちろん、何かしらで人生相談をされたら真摯に応じますが、若い人に限らず、多くの人はそれなりにプライベートを充実しているものですし、私に言われなくても勝手に色々と経験を積んでおります。

たまに身近な人がすごい経験をされたり、何気ない瞬間に意外な能力を発揮する人がいますが、それだって生活環境によって当人が普通と思っていることが、周囲から見れば驚嘆に値することがあり、誰か個人の促しによって培われたものではありません。

「若いうちは遊べ」などと言うのは、特に色々なことが個人でできる現代において、わざわざ助言するのは野暮というものです。

 

また、そのような各人が勝手に経験を積んでいる(遊んでいる)ところに、仕事だ何だのと理由をつけては電話やメール、LINEなどをもって意味不明なタイミングで連絡をしてくるのは邪魔をしているだけということでもあります。

本当に「若いうちは遊べ」と言うならば、ちゃんと定時で帰ることができる日を意図的に設けたうえで、「仕事関連で携帯電話が鳴ったらどうしよう・・・」という不安を仕事の時間以外で抱かないような職場づくりを、先達者がするべきです。

 

上記のような環境が常態化しているのが日本ですが、幸いにも現代は多様な考え方が受け入れられ、かつ働き方も日本では変わってきております。

若い人たちに挑戦を促す仕組みは会っても良いでしょうが、あまり過度に「若いうちは遊べ」という助言は控えたほうが良いと思います。

大丈夫です、若い人たちもそうでない人たちも、勝手に生きて人知れずに経験を積んでいくのですから、あとは邪魔しないようにすればいいだけの話です。

 

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

「後悔しない」を考える

アラフォー童貞のODです。

 

日本は長寿国家と言われておりますが、当然ながら自分の生命がいつ終わるかなんてことは誰も分かりません。

それどころか、自分の生命が明確にカウントできる状態になったら、それこそ最初に感じるのは絶望と困惑でしょう。

視点を変えれば、自分の生命がいつ終わるか分からないということは、それはそれで幸せなことかもしれません。

 

一方で、私たちは自分の生命がいつか終わること、大切な人といつかは別れるときが来ることが分かっていながらも、心のどこかで「このままの日が続く」と考えて日常を何となく過ごしたり、どうでも良いことで感情に振り回され自分や他人を見失うこともあります。

しかし、それもまた幸せなことなのかもしれません。

日々を噛みしめて生きることは大切ですが、毎日のように「今日を大切に生きよう」と思うのも疲れてしまいますし、他人や環境に振り回されながらも日常を精一杯生きることだって人生です。

 

・・・何だか湿っぽい内容で恐縮ですが、アラフォーともなるとこのようなテーマを何となく考えてしまうのです。

いえ、それはアラフォーに限らず10代でも20代でも定期的に頭によぎってしまうことであり、それが年を重ねることに、そして人の死に触れる機会が増えるごとに自分自身の身に何があってもおかしくない、自分が今生きていることは奇跡の延長であると思いやすくなるのでしょう。

 

しかし、生きることに対して色々と考える機会、自分の内面と向き合う時間を設けるようにしているものの、私はそれに対して長い時間・長い日数をかけて深く考えないようにもしております。

なぜかと言うと、生きることにおける思考というのは、時間をかけすぎると「考えているふり」になってしまうからです。

「考えているふり」というのは、答えや方針、それを見出すための材料などもないまま脳内で思考を繰り広げている状態であり、ゴールが全く定まっていない獣道を歩くような無駄なことをしているのと同義です。

 

「考えているふり」の典型的な状態として「迷う」ことが挙げられます。

貴重な人生において迷いというのは時間の浪費であり、かつ脳内を活発にしているつもりで実際には何も考えていない状態でもあります。

 

とはいえ、人間は迷うものであり、このように書いている私も頻繁に迷います。

それは今後の将来や人間関係、仕事における重大な判断などだけでなく、コンビニで昼食を選んでいるときや休日をどう過ごすかなどもあります。(性欲が湧いたときのポルノを眺めているときも同様で)

 

このような迷う時間を振り返ってみると、結局は損得勘定で考えたり、自分の中にある余計な知性とプライドなどが邪魔をしているものです。

そのため、最近では考えても答えがでない状態、つまり迷いが生じたら「ひとまず行動する」ということを1つの指針としております。

それはほんの小さなことであり、例えば同僚が髪を切ったと気づいて声をかけようとしたとき、「髪を切ったか聞いて、切っていなかったらどうしよう」「下手に褒めてキモいと思われたら嫌だな」と迷うくらいだったら、「髪切ったの? 似合うね」とか「何かスッキリしていい感じだね」と言ってしまいます。

また、直属の部下が元気なさそうならば「声をかけようかな」「下手に心配しても面倒かも」と迷うくらいならば「仕事でどっかつまづいてる?」と声をかけますし、残業しそうならば定時でちゃんと帰るように促しもします。(個人的に教育において「見守り」と「放置」は違うと思っておりますので・・・)

 

何となくですが、人生において、充実感を得るとか日常を大切に生きるという話になったときのポイントは、「いかに後悔しないか」ということだと思うのです。

そして後悔しないためには、考えることに時間をかけつつ、迷う時間をいかに削減するかが重要であり、その具体的なアクションとしては「頭に浮かんだことは、とっととやってみる」ということだとも思うのです。

そして、その行動の先にある結果を自分の決断と受け止めれば、どんな失敗でも「仕方ない、次だ次」と割り切れる癖がついていくのです。

 

このように思うようになってからは、買い物をするときも「ここで買わなかったら、家で悶々とするかも・・・」と思ったら購入するようになりました。(注:浪費を推奨するという意味ではなく)

また、何となく自炊をするが面倒だと思って惣菜を買っておいても、「ひとまずコンロの上にフライパンを置こう」から始まり、冷蔵庫からカット野菜とお肉を出してみます。

それでも自炊するのが面倒だと思ったら中止しますし、思考を停止して体だけ動かすように料理を始めれば、気がつくと暖かい料理を完成させて充実した自分がいます。

 

後悔しないための行動力なんて、この程度の小さいことで良いのです。

改めて大切だと思うことをお伝えすると「頭に浮かんだら、それをとっととやる」を習慣づけすれば、わずかの後悔というのも少なくなると思うのです。

 

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

理由もなくイライラするのは「お腹の調子」が原因かも

アラフォー童貞のODです。

 

考察などと言って本ブログで偉そうなことを書いている私ですが、どうでも良いことでイライラしたり、普段は気にも留めないことが気になったり、物事全般がうまくいかなく感じたりすることがあります。

 

そういうときは「疲れているのかな?」と思って睡眠を長めにとったり、お風呂にゆっくり浸かったりして肉体の疲労を取り除くようにします。

また、「色々なことに関わり過ぎなのかも」と思ったら、仕事のスケジュールを見直して優先順位の低いタスクを取り除いたり、詰めていた予定を意図的に先延ばしにすることもあります。

精神的にピリピリしているときは、頭を使わない勢い一発の漫画を読んだり、お笑いの動画などを見て笑って気持ちを切りかえるようにもしております。

 

このように、メンタルというのは肉体に起因するものであり、反対にメンタルが肉体に何かしらの不調をもたらす要因になることもあります。

だからこそ、冒頭のように神経質になっているときは日常の行動や環境を、強制的にでも変えることによってメンタルを改善しようとすることは大切なのです。

自分のイライラ感やうまくいかない原因を特定することも大切ですが、それは他人が関わっていることだとコントロールできる話ではなく、余計に感情的になってしまうおそれがあるため、まずは自分自身の捉え方を変えられるコンディションにしたほうが良い場合もあります。

 

また、自分の肉体や精神の状態や変化というのは、どれか1つの大きな要因から生じているものではなく、小さな要因が重なっていることによって生じているものです。

小さな要因に足を引っ張られている、いわば重りを両手両足につけた状態のまま物事を無理にやろうとすると、そのときにたまたま現れた出来事や人物に対しての怒りなどがそれらに対して向いてしまいます。

すると、「これ(この人)が悪いから、自分はムカついている」と大きな要因として認識してしまうようになってしまい、余計に小さな要因でなく、大きな要因(と思っているもの)を何とかしようとして解決策が生まれなくなったり、周囲と変な軋轢を生んでしまうこともあるのです。

そこで「まあいいか。こんな日もあるさ」と思える人ならば良いですが、そうでなければ特定の原因ばかりに目を向けている思考を少しでも広げる・ズラすという取り組みが必要となります。

そのためには、足を引っ張っている小さな要因にも目を向けて、「ああ、こいつらもイライラの要因かも」「あれ(あの人)だけが要因じゃないな」と思考を切り替えることが求められます。

 

では、「小さな要因とは何ぞや? 」となりますが・・・こればかりは各人の生活スタイルや考え方に寄るため特定はできません。

しかし、同じ人間という生物としての観点から、是非見てほしい要因があります。

 

それは「お腹の調子」です。

 

何の話かと思われるでしょうが、肉体がメンタルに影響するということに関連して非常に重要なことです。(実際、精神系疾患と腸内環境に関しての研究も進んでおり、腸内環境の改善はうつ病の治療に効果的であるという話も有名です)

 

精神と腸内環境の話は医療や専門職でないので本記事では割愛しますが、一般的な感覚として「排泄後はスッキリする」というのは誰でも分かるはずです。

また、個人的な感覚ですが、私は日常で排泄面での悩みはないものの、イライラする日が続いているときや物事がうまくいかないと思う時期は、食生活や睡眠間隔がズレて、その結果が便秘など排泄にも影響しているように思っております。

そのためか、思い切って仕事を中断して休息したり、早く帰って食事をちゃんと摂って長めに寝た1~2日後は排泄がもとに戻りますし、排泄でスッキリすると何だかイライラ感やその理由になっていた要因なども消失してしまいます。

だからこそ、そのようなときは「もしかして、便秘だったからイライラしていただけかも・・・」と思って、また日常を送っていると、同じ事象に対して特に神経質になることもなく、むしろ「何であんなことで感情的になってたんだろう・・・」と反省することもあります。

 

もちろん、特定の原因を特定して問題点を取り除くことも大切です。

しかし、物事は複合的な要素が絡み合って1つの現象となっています。

そして、自分だけの感情のときには、自分の中"だけ"で何かしらの小さな問題があり、それらが重なって執着心をもったり視点がぼやけたりしていることもあります。

今回はその小さな問題と思われる要因として「お腹の調子」というところに絞ってお伝えしましたが、もしかしたら視力が落ちていたり、骨盤がズレぎみになっていたり、水分不足だったりと、肉体に係るちょっとした不具合に目を向けて見るのも良いと思います。

 

つきつめると、結局はイライラしたり物事がうまくいかないときは、まずは立ち止まって休むということが大切、ということなのかもしれませんね。

 

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

「憧れ」は「妄想・フィクション」で終わらせる

アラフォー童貞のODです。

 

「夢がない」「毎日つまらない」などと思うは少なくありません。

そのような人でも「こうなりたい」「あの人みたいになりたい」という、”憧れ”というものはあるはずです。

それは漠然と「金持ちになりたい」「異性からもてたい」「注目されたい」「実力を認められたい」といったものや、何となく金額目標を定めて貯金をしたり、とりあえず職場から言われて資格取得の勉強をしたりと自らの意思を介在しないものもあります。

そして、自分の趣味嗜好や一目見たときの印象で決まる”憧れ”もあります

 

しかし、この手の”憧れ”というものは、過度に独りよがりなイメージを抱いてしまうと、その現実を知ったときに「そうでもなかった」「イメージと違った」と落胆することがあります。

 

例えば、ドラマや映画がヒットすると、その作中の職業に応募する人が増加することがありますが、その仕事の厳しさや地味さに落胆して職を離れる人もおります。

理想的な異性が現れたときに自分のイメージ(妄想)を膨らましていたのに、その人の日常の言動や生活スタイルや好みなどが、自分が嫌悪するタイプだと分かって落胆することもあります。

自分が注目している有名人の生活スタイルに憧れて、同じグッズや似たような部屋の内装にしたものの、自分の生活スタイルに合わないで健康面や経済面に影響が出ることがあります。

 

共通して言えることは、「こんなはずじゃなかった」ということです。

そう思う原因は、”憧れ”というものに対して強い妄想を抱いたり、フィクションなイメージを事実として「これはこういうものに違いない」「きっと〇〇さんはこういう人に違いない」「あの人の生活を真似すれば自分も良くなるはず」と思い込んでしまうことです。

 

何も”憧れ”を持つことを否定したり、妄想やフィクションを現実と混同している人ばかりのような批判にみたいに思われるかもしれませんが、そうではありません。

むしろ多くの人は、”憧れ”と”現実”を分かったうえで妄想などを抱いているはずです。

 

分かりやすい例は、アダルトビデオなどのポルノでしょう。

痴漢ものというジャンルがありますが、そもそも痴漢なんてしたら逮捕されます。

未成年や幼少の女子らが性行為に応じてくれたとしても、社会的にはアウトです。

職場のOLや隣の人妻とエッチする状況には日常においてほぼありません。

しかし、世の男性は自分の性癖に応じたポルノを求めてしまうのは、そこに対して”憧れ”を抱きつつ、日常で叶えられない妄想とフィクションとして発散したいからです。

そして、もやはファンタジーと言うべきポルノによって性欲を発散することで、”憧れ”は”憧れ”であると認識して、また何食わぬ顔で日常を送るのです。

それはもはや、”憧れ”に対しての誤魔化しと言っても良いかもしれません。

 

”憧れ”という高尚そうな単語と、ポルノという低俗そうな分野を並べることに不快に思われる方もいるかもしれませんが、夢を叶えることの大切さとともに、私は自分の中で”憧れ”を妄想やフィクションとして完結させることも必要だと思うのです。

そうでないと、それこそフィクションのドラマや映画だけの良いところだけで職業を選ぶことは、その職業や業種の人たちにとって迷惑になることもありますし、意中の人への憧れは個人の妄想の押し付けにもなりかねません。(場合によってはストーカーなどに発展する恐れもある)

 

ちょっと残酷なことを言うと、”憧れ”を”憧れ”のままにしておくためには、現実や意外な面を見ても幻滅しない取り組みが必要です。

それが「妄想を妄想のままで終わらせる」「創作物などのフィクションだけ満足する」ということであり、それがある種で周囲に迷惑をかけないで済む方法とも言えます。

 

そのうえで”憧れ”を”憧れ”のままで終わらせたくなければ、対象に一歩踏み込んだときに幻滅する可能性があること、その対象の範囲にいる人たちに迷惑をかけることがあること、ときには非難をされることもあること、そして”憧れ”が嫌いになってしまう可能性があること・・・を覚悟しておいてほしいのです。

 

そこまで分かっていれば、きっと誰も止めはしないと思います。

その責任は周囲でなく、勝手に憧れた当人にあるのですから・・・。

 

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。