アラフォー童貞は〇〇と考える

アラフォー童貞が仕事、時間、性など考えたことをまとめています。

「今は誰も信用できない」という時期はあってもいい

アラフォー童貞のODです。

 

現在進行形で身に降りかかっている問題に立ち向かっているとき、長い間解決できないわだかまりがあるとき、理由は明確ではないモヤモヤ感を解消しようとしているとき、どうしても孤独に感じてしまうものです。

このようなときは「こんなに頑張っているにのに、周りは何も言ってくれない!」と怒りが湧きやすいものです。そうならないよう、せめて孤独である気持ちを分かってもらおうと『人に頼る』ということを実践したものの・・・

 

「身近な人をに相談したけれど、話が通じなかった!」

「せっかく悩みを打ち明けたのに、分かったような態度をされた!」

「聞いてもいないアドバイスをされてムカついた!!」

「誰かを頼りたくても、自分と同じレベルで理解できる人なんていない!!」

 

・・・など、人を頼ろうとしたがために、気持ちが解消するどころか逆効果で終わることもあります。このような状態が続いて積み重なると、人は次のような心理状態になります。

 

「もういいや」

「誰かを頼ろうと思った自分が馬鹿だった」

「結局、自分しか頼れないんだ」

「・・・今は誰も信用できない」

 

このような心の声が大きくなり、現在いる環境や関わっている人たちに対して、分厚い殻を作ってしまうようになります。こうなると平然を装っているように見えても、どこか周囲へ冷たい態度をとってしまったり、ちょっとしたことで他人にイラ立つようになります。どんどん壊せない壁にぶつかり続け、脱出できない迷宮をさまようような状況が続きます。事態が解消できないならまだ良いほうで、場合によっては状況がどんどん悪くなることもあります。睡眠や食事の質も落ちていき、健康状態にも影響するようになることもあります。

 

さて、このようなときは、一体どうすれば良いのでしょうか?

結論から言うと、誰も信用できない状態(人間不信モード)になったら「どうしようもない」としか言いようがありません。言これこそ時間が解決するしかないと思います。

 

よく考えてみてください。自分自身がこのような状態になったとき、他人から何かアドバイスや慰めの言葉をかけられたところで、気持ちや感情が好転するでしょうか? また、他人が人間不信っぽくなっているときに、心配した自分が声をかけてあげたところで「心配してくれてありがとう! その気持ちだけで救われたよ!!」などと言ってもらえるでしょうか?・・・おそらく、双方ともにありえない話ではないでしょうか。むしろ、下手したら「何も分からないくせに、分かったような顔するな!!」とか「こっちが心配してるのに、何だよその態度は!!」といった喧嘩になる可能性のほうが高いです。

 

もちろん、孤独を感じている自分のことを気にかけてくれること自体は感謝するはずです。嬉しい気持ちもあります。しかし、それを表現すらできないほどのが「今は誰も信用できない」という状態なのです。むしろ、「今は何も声をかけないで。何に対しても噛みついてしまうから」と距離をとりたい心理でもあります。孤独を感じているというわりに矛盾していますが、そういう状態なのが人間不信モードなのです。

こちらが心配して声をかける場合も同様です。もしも、暗い顔をした相手に労いの言葉をかけたときに「・・・あ、はい」とか「別に放っておいてください」と言われることもあると思って下さい。そのような状態の人は、上記のとおり人間不信モードでありながら感謝とか孤独感とかイラ立ちが混在しているため、気持ちを制御できないけれど、揉め事にならないように、何とか最低限の礼儀としての、結果的に素っ気なく見える言葉を振り絞っていることをご理解ください。

 

では、このような人間不信モードの自分、あるいは人間不信モードの他人を放っておいてもいいのでしょうか? 何か精神を病んだり、不合理な行動に走ったりしないでしょうか? ・・・これについては、どのような結果になろうと自分自身の問題であるし、あるいは他人の問題である、としか言いようがありません。人間不信モードになった結果、どうなるかはその人次第なのです。他人が責任を負う話ではない、というのが私の見解です。

 

それに、個人的には「今は誰も信用できない」という人間不信モードは、ときには状態はあってもよいと思います。これは人間的に成長するために必要とかいう話ではなく、他人の理解が得られないように感じることは誰にでもありますし、そのようなときに自分で踏ん張って何とかしようとするのも人生ですし、「もういいや、こんなのやーめた」と思うのもまた人生です。頑張って見えてくる打開策もあるかもしれませんし、何かが得られる保証もありません。何もかも適当になった結果、生活も健康もダメダメになるかもしれませんし、力が入り過ぎていた自分に気づくかもしれません。

人生は「●●したから(しなかったから)✕✕という結果になった(ならなかった)」なんていう、原因と結果がハッキリ結び付かないことのほうが多いというんは、誰もが何となく実感していることでしょう。ならば、ときには「今は誰も信用できない」「結局は自分は独りきりなんだ」と思うことがあっても自然なことだと思うのです。

 

とはいえ、ずっと人間不信モードというのも、精神衛生上あまり良くはないことも知っていると思います。それならば、まずは「今は誰も信用できない」という自分を受け止めておいて、例え周囲に不快感を与えても、(暴力などに走るなど)最低限の迷惑をかけないことだけ意識して生活を続けるしかありません。

徐々に気持ちが落ち着いてきたならば、それはそれで良いと思います。下手に「自分は嫌な態度をとっていた」と責める必要もありません。むしろ、そのような落ち着いたときにこそ周囲からの言葉に耳を傾けられるため、悩みや問題を相談するタイミングと思って下さい。そのときに「最近、失礼な態度だったと思いますが・・・」と言えば、周囲だって「うん、心配していたけれど、こうして言ってくれて嬉しいよ」と理解を示してくれるはずです。

これは、身近な人が人間不信モードから立ち直りつつあるときも同様です。しばらくは見守りつつも、相談してきたら話を聞くだけで良いというスタンスでいることが大切なのです。

 

何だか他人事のように書いてきましたが、私自身もトラブルが重なると人間不信モードになります。そのようなときはイライラしますし、周囲に「わかってないな・・・」とダークネスな面を出したくなります。しかし、しばらくすると落ち着くことも分かっているので、定期的に襲ってくる「仕事を辞めたい」モードと同じようなものと思っております。さらに「この感情が××月まで続いたら、今いる環境をやめればいいや」というくらいのスタンスでいるので、自分自身に起こった人間不信モードに対して割と容認しております。

 

参考になるかは分かりませんが、ひとまずは「今は誰も信用できない」ということはあるときはある、と思っていただければ幸いです。

 

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

 

「孤独」「寂しさ」を感じるのは自然なこと

アラフォー童貞のODです。

 

ふとしたときに孤独や寂しさを感じることはないでしょうか?

わけもなく孤独を感じるときもあれば、何となくでも理由や原因がわかっているうえで寂しさを感じることもあります。

仕事で疲れて家に帰っても誰も出迎えてくれる人がいないなど、分かりやすく孤独を感じる状況のときもあれば、すぐ目の前に友達や家族がいて、しかも自分も楽しくおしゃべりに参加しているのに寂しさが湧き上がるときもあります。

「あー、何か孤独だな」と軽い程度のときもあれば、「結局、人間はひとりなんだ」といったような、まるで人間不信に陥っているかのようなレベルのときもあります。

その瞬間だけのときもあれば、1日中モヤモヤしたけれど翌日にはケロッとしているときもありますし、数日~数週間、何なら1年を通じて周囲との関りに距離を感じて日常を過ごすこともあります。

独りであれこれ考えて解消することもあれば、他人に気持ちを打ち明けてスッキリすることもありますし、寂しい気持ちをSNSやブログ・ノートなどに言葉にすることで自身の心情を整理することができることもあります。あるいは何をしても気持ちが解消されないこともあります。

 

このような孤独感や寂しい気持ちという気持ちについて、「誰もが同じ気持ちになることはある」と言う人がおりますが、私は簡単にそんなことは言えません。それは、誰もが同じ自分と気持ちになるということはないからです。その人の気持ちはその人だけのものです。自分も他人も見えるように数字やイメージ画像のように客観的に表現することはできません。仮にできたところで、他人はおろか自分自身ですら「ああ、こういう気持ちなんだ」と理解することはできないでしょう。

 

しかし、自分が孤独や寂しさを感じているときに「誰もが同じ気持ちになることはある」と言えないものの、「誰もが孤独や寂しさを感じるときはある」ということは言えます。孤独や寂しさという言葉において一人一人のカタチは異なるものの、孤独や寂しさという気持ちが湧き上がるのは誰にでもあることは確かです。自分自身の気持ちを他人は理解してくれないし共有できないけれど、孤独や寂しいという感情に包まれるという状態は誰にでも起こる自然なことです。

 

そして、それは大抵の場合は一時的なものであることも自然なことです。孤独や寂しいということを感じる一方で、また違う感情が湧くときもあります。

例えば、頑張りが報われない状態が続いたある日、事態が好転して自分の頑張りが報われたり、「人間は結局自分で頑張るしかない」とやさぐれていたとき、他人が自分を助けてくれていることに気づくこともあります。

そのようなとき、私たちは視野が広がり、世界に色がついたかのような感覚になります。すると自分がおかれている環境への見方も変わり、人に恵まれていると感じるようになったり、助けてくれている人たちに感謝をするようになる・・・そんな時期もあります。

もちろん、「すべての感情が一時的なものである」とか「良いときも悪いときも浮き沈みがあるから気にしなくていい」なんて無責任なことは言いません。物事にはそのようになっている原因があり、その中にはちゃんと解決したほうが良い問題もあります。

 

しかし、わけもなく孤独や寂しさを感じるときは、その苦しみを解消しようと足掻くことをしないほうが無難です。

昨今ではマインドフルネスや禅の考え方といった心のあり方を説く方法がたくさんあります。それ自体は問題ないのですが、孤独や寂しさを感じているときというのは、心に問題があるというよりも、肉体の疲れという問題もあります。そのため、無理に瞑想を行って心を落ち着かせようとしたり、勉強や運動などの自己成長に取り組もうとするよりも、疲労を解消したほうが良い場合もあります。

実際、疲れているときはネガティブに考えがちなものです。ネガティブ思考そのものは自分にとっての気づきにもつながるので悪いものではありません。むしろ、孤独や寂しさを感じているときに、無理にポジティブにとらえようとするほうが精神を害するように思えます。「この孤独感を何かに活かそう」「寂しい気持ちを周囲に知られては迷惑をかける」なんて思おうものなら、余計に悪く考えてしまい、孤独や寂しさに深入りしてしまいます。ポジティブに考える必要はないけれど、せめて「まあ、孤独を感じることもある」「一人になるのが必要な時期かも」くらいに留めておいてください。

ときどき、「自分は独りのほうが気楽だからいい」という人がおります。しかし、そのような人であっても孤独や寂しさを感じるということはあるはずです。そのようなときは「意外に自分は他人の存在が必要なのかもしれない」といったことに気づく機会でもあります。

 

最後に。

孤独や寂しいと感じることはあります。それは自然なことであります。単純に個人が感じている孤独や寂しさは当人のものであり、他人は理解してあげれないということを理解してください。そして、孤独や寂しさを感じているときは肉体が疲れているサインという視点ももってください。無理にポジティブに考えようとしたり、感情を制御するために肉体を酷使するような試みは避けたほうが良いです。

もしも孤独や寂しさに対して意味づけをするならば、自分の感情を認めてあげたうえで「こういう時期も必要さ」というくらいに考えてみてください。

 

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

 

 

「他人の目が気になる」というのは自然なこと。でも、ほとんど妄想。

アラフォー童貞のODです。

 

「他人の目が気になる」

「周囲からどう思われてるのかが気になる」

「変に思われているのではないか」

「さっきの態度は失礼なのでは・・・」

 

このように、私たちは日常生活において他人の目を気にしながら生き、そして苦悩します。これは社会人であろうが学生であろうが、若い人でも歳を召した方でも、何なら幼稚園児だって他人の目を気にしてしまいます。

 

事前にお断りしておきますと、自己啓発本のような「他人の目を気にするな、自分は自分だ。自分の『今』に集中するんだ」なんてことは言いません。それどころか、他人の目が気になるというのは、どうしようもありません。

私たち人間は、集団でお互いを支え合うことを前提がプログラムされております。それは原始時代に遡り、集団から嫌われたら食料を分けてもらえないといった弊害を、遺伝子レベルで本能として理解しているのです。生命に関わる話と思っているのです。そして、誰しも集団から外れるときの弊害やリスクというものを、幼少期からどこかのタイミングで体感するものです。そうして、人間は嫌われると生きていけないということを肌感覚や世の中の常識として理解するにつれて、他人の目というものを気にする度合いも増していくことになるわけです。

 

しかし、他人から嫌われること・集団から外れることの弊害やリスクって、この文明社会においてはどの程度のものでしょうか? 集団の輪から外れることは自己否定された気持ちになったり、悲しい気持ちになったりするものの、実際はその特定の集団から外されただけであって世の中全体から外されたわけではありません。悲しい気持ちになったとしても、何も命まで取られるわけではありませんし、理解不能な暴力はさておき、怪我をするということもありません。逃げようと思えば逃げることだって可能です。

 

また、現代人は集団で生きているものの、上記のとおり命の危機までに至ることはありません。そのせいでしょうか、命の危機がなくなり余裕ができた分、余計に他人の目を気にしてしまうのかもしれません。つまり、原始時代では「このグループから外れると食べるものを分けてもらえないかも」という心配が現代人はなくなったのに、その心配をしていたスペースに「あれ、ここは何もないけれど、ここの部分についても他人のことを気にしなくてはいけないのでは」と考えてしまって、しかし何を気にかければいいのか分からないまま、やみくもに気にしてしまうようになります。

 

すると、どうなるのかと言うと、余計な心配をするようになります。他人の1つ1つの動向や仕草を自分のことと結び付けて、あーでもない、こーでもないと考えるようになります。言ってしまうと「妄想」です。

 

そうです、現代における「他人の目」は、ほとんどが妄想と言っていいのです。

 

そもそも、他人が自分のことを悪く思っていると気にしたとき、それを対象となる他人に確認したことはありますか? もちろん、他人のことを気にしている人が「私について何か気に障ることはありますか」なんてことは聞かないでしょう。それに、仮にそのように他人に確認したところで、おそらく「へ? 何のこと? (別にあなたのことは特に気にしていないけれど)」という反応をされて終わりなはずです。

 

また、「●●さんがあなたのことを悪く言っていた」なんて話も真に受けないほうが良いです。人づてに聞いた自分の話ほど、信憑性がないものはありません。そもそも、誰かが言ったことを、一言一句間違えずに別な人に伝えることはできるでしょうか。少なくとも私はできません。おそらく、「たしか、こんな感じで言っていた」となります。メモを取っていたとしても、一言一句間違えずにというオーダーは困難です。それに、他人を経由した言葉・文字というのは主観(妄想)が入るものです。それなのに「●●さんが言っていたよ」なんて、よく言えたものだと思います。だからこそ、他人の悪口なんて言ったところで、結果的に自分の価値を低くすることになるのです。

 

そもそも、自分が見る他人への評価だって怪しいものです。他人が言っていることに賛同したとしても、その人は全く違う考えをしているかもしれません。反対に、価値観が違うと思っていた人の意見が実は自分と同じ方向を目指していたこともあります。このようなことは他人だってしかりです。お互いに信憑性のない考えや態度をして、お互いに妄想し合っているのです。そう考えると馬鹿らしいですし、一方で愛おしさすら感じてしまいます。

 

何度もお伝えしますが、他人の目が気になるというのは自然なことです。しかし、それは現代においては妄想の割合が増えており、それで脳と心がオーバーヒートしているのも事実だと思います。

もしも、他人の目に疲れたならば、まずは「人のことが気になるのは仕方がない。それが人間だもの」と受け止めつつも、「あ、また妄想しているかも」と、自分自身の視点を変えることもしてあげてはいかがでしょうか。

 

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

 

 

「与える」ことに疲れたら

アラフォー童貞のODです。

 

私たち人間という存在はとても非力なもので、己の肉体だけで自然界を生き延びることはできません。そこで縄張りに加えて住まいを作って環境や外敵から身を守ったり、衣類を身にまとうことで肉体を守ったり、自分の力のなさを道具を使うことで生存競争を生き延びてきました。

こうして人間は反映していき、そして文化と文明をもって現代に至るなかで、もはや獲物を追いかけて狩りをするという原始的なことはしなくなりました。しかし、どの時代においても変わらないことがあります。それは人間は何だかんだ言っても集団でしか生きられないということです。それは規模の大小はあれど、社会という集団として成立しております。それはどこで生まれても逃れられない事実です。

 

そうした中で大切なのは、他者と共同で生き延びようとする姿勢です。どんなに自分がお腹が空いているからと言って、何もしないでご飯はもらえません。原始時代であれば獲物や木の実をたくさん獲る人こそが価値があり、その人が集団に自分の成果を提供することで評価され、そして今度は別の人が獲物や木の実を獲ってきたならば、自分も恩恵を受け取ることがあります。

 

このような原始時代からの「この間はあなたからもらったから、今度はそのお返しに私もあげますね」というやりとりこそが、時代が変わっても文明社会になっても続いているのが人間という集団の成り立ちです。

 

これはいわゆる「ギブ&テイク」というものです。

日本語で言えば「持ちつ持たれつ」と言ったところでしょうか。

類似の言葉で心理学における「返報性の法則」も同様でしょう。

 

この「ギブ&テイク」において大切なのは、「ギブ」であると言われています。つまり、与えるという行為こそが人生を成功に導く鍵であるということです。実際、歴史上の人物や偉人というのは大抵「与える人」だったと言われています。表面的に見るといいように使われたり、お人好しみたいに思われるのですが、全体像を見てみると、実は与えたことにより最終的に良い結果に導いているのが「与える人」なのです。

もちろん、何でもかんでも手を貸したり、やみくもに物や金銭を差し出しているわけではなく、見栄っ張りなわけでもなく、その人が成し遂げたい目的や人生における軸があってのことです。その一方で「与える人」の大半は純粋な気持ちもちゃんとあり、お返しを貰うことも考えていないのです。

 

・・・と、このように書くと「まるで聖人であり、人格的に立派で、社会的に大きな貢献をもたらすような『与える人』を目指しましょう」ということを言いたいように思われてしまうかもしれませんが、そうではありません。まあ、そういう人になりたければ止めませんが、そこまでの「与える人」を目指すのは(言ってはなんですが)逆に人格が破綻しているとしか言えません。あるいは、よほど人生のおいて成し遂げたいことがあって、自分の生活なんてどうでもよいというレベルの人の話です。

 

私自身、与えることに対して抵抗はありませんし、自分が差し出したもので受け取った人が喜んだり成長してくれればそれで良いと思います。しかし、他人の生活に寄り添い過ぎたり、その人の価値観に合わせすぎた状態で与えると、自分の中で違和感が生じてしまいます。それは自分自身が潜在的に納得していない状態で与えているためであり、そのような状態のまま与えるということをしていると、知らず知らずにストレスが溜まってしまいます。すると、次第に与えるということに疲れてしまいます。

 

与え続けているということは、度が過ぎると自分を擦り減ってしまいます。

 

空腹の状態でご飯を食べようとしたところに、お腹を空かせた人通りかかったらどうするでしょう? 気にせずご飯を食べるというのも1つですし、その相手にご飯を差し出すのも自由です。しかし、それが1回とか稀なケースならば問題ありませんが、1日の中で何回もあったらどうでしょう? さらに数日、一週間・・・なんて続いたら、当然ですが栄養不足で倒れてしまいます。苦しいのに「与える人」であろうと考える人は、結構このようなタイプが多いように思います。いわゆる自己犠牲というものです。

 

こう言っては何ですが、自己犠牲の状態の人から受け取った人は、そのときは悪いなと思いますが、割とその後は気にしないものです。よほどの善人でないかぎりは「あのときの恩をずっと忘れていない」とはなりません。そのときにお礼を言って終わることがほとんどでしょう。反対に、与えた側は割と覚えています。よほどレベルの高い「与える人」でないかぎりは「あのとき、自分が身を呈してやってあげた」とか「あの人が困っているときに手伝ってあげた」という「あげた」ということを覚えているものです。だからこそ、反応が芳しくなかったときに「あれ、あれじゃあ足りなかったのかな」とさらなる自己犠牲に走ることもあります。それこそ、自分がボロボロになっているとも気づかないまま・・・。

 

「与える人」という姿勢は素晴らしいと思います。なるべく、純粋な気持ちで続けて欲しいと思います。しかし、心のどこかで納得していなかったり、心のどこかで見返りを期待しているならば、ちょっと「与える人」のあり方を見直したほうが良いと思います。それは自己犠牲になってしまう可能性があるからです。

また、「与え続ける」ということもやり過ぎない方が良いです。与えるということは自分の中にあるものしか与えられません。そのため、与え続けていると自分の中にあるものが空っぽになってしまいます。たまには自分の中にあるものを見直して、棚卸をしたり、新しいものに入れ替えする期間も設けてみてください。個人的には読書がお勧めです。他人に時間を使うのではなく、自分のために時間を設けてのんびりと1ページ1ページ開いて、自分の心の整理整頓と新陳代謝をすることをお勧めします。

 

「与える」ということで心は満たされることもありますが、なぜか疲れるということもあります。そのようなときは、与えることをストップして自分自身を大切にするようにしましょう。

 

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

 

 

実力のない者が最高レベルに学んだところで「時間の無駄」という話

アラフォー童貞のODです。

 

データサイエンスを学びたくて、統計学や数理系の勉強をはじめたのは良いのですが、いやはや難航しております。いわゆる「〇〇でも分かる入門書」といった超初心者でも理解しやすいように、色々な例えば話や図説が多いものを手始めに読み始めたものの、ちんぷんかんぷん。おそらくですが、その手の本の筆者が想定する超初心者よりも、きっと私の学力が乏しいのだと思います。このことに気づいたのは、理解できなくてもいいから買った本は一通り読もうと決意したものの、3分の2以上読み進めたところで「これは最後まで読んだところで理解できない」と思い、もう少し学習範囲を狭めた本に切り替えてのことです。

それまで読んできた本は、しっかりとした学力のある人が読む分には「超初心者でもわかる」というタイプであるものの、学習範囲が広いうえに情報が密になってしまっております。そのような内容でも理解するとなると、その分野を学ぶための基礎中の基礎というか、その分野を学ぶ以前の国語・数学・理科・といった言ってしまえば中学レベルのお勉強が必要だと気づいたのです。そのため、「〇〇でも分かる入門書」は一度脇に置いて、まずは中学数学の勉強をしつつ、学習範囲を狭めた教材に切り替えた次第なのでした。

 

このような苦い体験であり、自分の基礎学力のなさ(低下)を実感したこともあり、改めて基本というものの重要性を理解したのです。何も「自分はできるやつだ!」なんて勘違いはしていませんでしたが、心のどこかで「中学レべルくらいは覚えているだろう」「やっているうちに思い出す」「仕事ではもっと頭を使っているから、これくらいは平気」なんて高をくくっていたのでしょう。学生の頃は授業中に「こんな勉強が何の役に立つんだろう」と思っておりましたが、今になって分かります。

 

何かを学ぶこと、何かを理解すること、何かを修得するには、基礎は重要なのです。

それは学校で教わっていたこともそうですが、対人関係における礼節もそうですし、スポーツにおける基礎体力や武道における「型」というものの、すべては上のレベルにいくためには必要なことなのです。

 

少し違う視点の話をしますと、仕事関係でたまに「研修に行きたい」と希望するスタッフがおります。このような学習意欲や成長志向にある人は、どんどんチャンスを与えてあげたいと思っております。・・・が、たまに「この人がこの研修に行って、果たして理解できるのだろうか?」と首をかしげることがあります。場合によっては、研修の申込を却下することもあります。すると、「せっかく最高レベルのものに触れる機会なのに、どうしてダメなんですか」と不満な顔をされることもあります。

 

要するに・・・

最低レベルの実力もない人が、最高レベルに触れても無駄

・・・という話です。

 

どの分野でもいいのですが、初心者レベルでは理解できなかったことが、知識や技術を習得するうちに「今思えば、あれってすごい事をしていたんだ!!」と振り返って気づいた経験はないでしょうか? あるいは「ああ、あのときのアレは、ここにつながるんだ、なるほどな~」と点と点がつながった瞬間はないでしょうか? これこそ自分のレベルが上がったことの証明です。

逆に言えば、そのレベルに至っていないときには、どんなに素晴らしいものを見ても、教えてもらっても、理解できないまま終わります。もちろん、それ自体は1つの経験になるかもしれませんが、基礎もできていない初心者が最高レベルの実力者の立ち振る舞いを見たところで、周囲は「おお~」となっても、その人は「?」となるだけです。

 

辛辣な言い方をすると、人によっては「最高レベルに触れれば、自分もそのようになれる」とか「素晴らしい先生から教われば、きっとすぐに上達するはずだ」と考えている人がおりますが、そのような人の多くは基礎学習や基礎練習を面倒くさがる傾向にあり、そのくせ効率的とか言っては自分のレベルに相応しくない教材やセミナーに手を伸ばすのです。しかし、その結果としてせっかく高いお金を出したのに分かったやら分からないやらで終ったり、素晴らしい講師と出逢ったのに自分が理解できないことから「あの先生はいまいちだ」などと逆恨み的なレビューもするのです。

 

最高レベルを知りたければ、最高レベルから教えを受けたいならば、その前にそれを理解しうるだけの実力を身に付けることが前提です。そのためには、まず基礎を鍛えることが先決であり、本当の意味で効率的と言えます。

 

すぐに自分のレベルを上げたいのは分かりますが、その方法として「最高レベルに触れれば、すべてうまくいくだろう」という考えは甘いと思います。もしも、最高レベルに触れたうえで理解できなかったり、思ったよりも何も得られなかったならば、そのときはきっぱりと「自分にはまだまだ実力がない」と思って、基礎からやり直すという素直さを持つことも大切なのです。

 

・・・というわけで、私は私で、引き続き中学レベルの数学を学び直すとします。

 

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自分と同じ趣味の人に出会っても、まず落ち着く

アラフォー童貞のODです。

 

出会いは突然とは言いますが、自分と同じ趣味の人に出くわすときがあります。それはスポーツや音楽のジャンル、ドラマや映画などといった世間的に広く認知されているものもあれば、特定のアイドルや芸能人、専門の知識や技術を要することなどのニッチな分野もあります。

広く認知されているものは誰もが表面的に楽しめるため、話を振られてもそれなりに会話は成立できます。しかし、ニッチな分野になると、話を振られてた人は何を言えばいいのか困ります。そのため、その分野がとても大好きであっても、話せる人がいないと知っているがゆえに次第に自分だけの世界にこもりがちになります。

もちろん、自分が好きなものは独りで楽しみたいという人もいるでしょうが、人間は他者とのコミュニケーションがあって生きております。それに承認欲求だってありますし、自分が好きなものに正当性を求めることだってあります。何より、自分が大好きなことは語れるならば語りたいものです。それを公然に言ったところで無駄だと分かっているので、口を閉ざしているだけというのが現実というものです。

 

しかし、そんな状況において、あるとき身近な人や一時的に関わった人が、自分と同じ趣味や嗜好をもっていると分かったら嬉しいはずです。それは公然と判明したわけではなく、ほんのわずかな片鱗を見ただけでもドキドキするものです。

例えば、いつもは雑談すら交わさない同僚のデスクの近くを通りかかったとき、その同僚のパソコンの壁紙が自分の好きな〇〇だったらどうでしょう? この〇〇には、例えば、自分が好きなスポーツ選手やアイドル、車やバイク、アニメや特撮、ミリタリー系、アウトドア・・・何でも入れることができます。カバンやスマホにその〇〇のキーホルダーなどのグッズを付けているということで分かることもあります。グッズで言うならば、マグカップや文房具といった実用的なものもありますので、そこから気づくこともあります。

もちろん、本人は好きとか嫌いではなく、よく知らないけれど単純にデザインが気に入ったとか、可愛いから使っているからとか、貰い物をせっかくだから使っている、なんてこともあるでしょう。

それでも、それまで周囲に誰も自分の趣味を語る機会がなかった日々において、そのようなきっかけを見つけたときは、よくわからない高揚感に包まれるのは確かです。それを見つけた瞬間、思わず「あっ!!」と声を上げてしまうかもしれません。そのくらい自分と同じ趣味や嗜好の人に出会えたということは、嬉しいことなのです。

 

さて、このようなとき、皆さんならどうするでしょうか? 思い切って「ねえねえ、これ好きなの? 実は私も好きなんだ!」と声をかけるでしょうか? それとも「いやいや、もう少し様子見だ。もしかしたら、貰い物を使っているだけかもしれない」と慎重になるでしょうか? あるいは「仮に同じものが好きだからって、話が合うと限らない」と、やはり孤独の道を歩むでしょうか? ・・・まあ、答えはない問題ですね。

 

とはいえ、1つだけ言えることは「まずは落ち着こう」という話です。

 

期待に胸を膨らますのは仕方ありませんが、同士に出会ったと思って急激にテンションを上げてしまったがために、せっかく同じ趣味をしていても引かれてしまうは避けたいところです。別にナンパしているわけではないですし、お笑い芸人でもないので会場を笑いで包もうなんて思う必要もないのです。

それでも、同じ趣味の人を見つけたときにテンションを上げてしまうのは、同士を見つけたという喜びとともに、それまで誰も入ってこなかった「自分の領域」に入って来てくれた人がいる、という錯覚があるからです。それはまるで、それまで友達がいなかった人が初めて自分の家に友達が来るとき、もてなし方が分からずに空回りしているような状態です。

 

ではどうすれば良いのかと言うと、再三お伝えしますが、同じ趣味の人に出会っても、まず落ち着くということです。そのうえで、「この人は自分と同じ趣味かも」という片鱗がある人に対して話しかけるならば、あくまで自然体でいることが適切です。

また、「え、これ好きなの!? 実は俺も好きなんだ!!」「え、マジで!? 俺以外で好きな人に初めて出会った、マジ嬉しい!!」なんていう展開を期待しないで下さい。飲み会などのレジャー的な場では問題ありませんが、例えば職場でそんなことをやられたら周囲は何事かと思います。(というか、かなり迷惑ですのでやめましょう)

 

話しかける前に思うべきことは、「自分と同じレべルで好きだといいな」とか「自分が好きなものを理解してもらえればいいな」とは考えないことです。それは、好きなものという共通認識を利用して自分語りをすることを予防することになります。

また、仮に相手が自分と同じ趣味を持っていたとしても、その人にとってはたくさん好きなものの1つでしかないことだってあります。アイドルが好きだからと言って四六時中考えているわけではなく、仕事に慢心したり、学業に専念したり、スポーツだって大好きかもしれません。自分が好きなものの割合が10割だとしても、同じ趣味や嗜好をもっている相手においては全体の1割かもしれません。

そして、同じ趣味であっても楽しみ方は人それぞれです。釣りが趣味といっても、ルアーを変えながら試行錯誤するのが好きな人もいれば、ひたすら量や大きさにこだわる人もいます。ただ釣竿を垂らしてぼーっとしているのが好きな人だっているでしょう。そこに対して自分のこだわりを力説しても、「この人とは話が合わないな」で終わる可能性であってあります。

 

自分と同じ趣味の人に会えると嬉しいのは確かです。しかし、まずは落ち着いて相手が本当に同じ趣味なのかを確認しましょう。そして、それが確定したとしても、その人の熱量も楽しみ方も自分とは違うだろうという前提で、そこから一歩踏み込んだ語り合いをすることをお勧めします。大切なのは、同じ趣味であっても、自分も楽しみつつ、相手も尊重することです。

 

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

 

誰かに教えてもらうが面倒であっても、「自己流」はやめたほうがいい

アラフォー童貞のODです。

 

勉強やスポーツ、仕事や趣味など・・・今の自分にないものを修得するには知識や技術の基礎固めはそれなりに必要ですし、時間やお金、体力だって確保しなくてはいけません。できれば退屈せずに苦しまずに気楽にやりたいですし、効率的かつ無料で済ませたいのも正直なところです。何より、物事を修得するにあたって一番面倒なのは、「誰かの教えてもらう」「誰かの教え通りにやる」ということではないでしょうか?

 

この心理は不思議なもので、誰かに教えてもらったほうが早いと分かっているのに、別にプライドが邪魔しているわけでもないのに、心のどこかで面倒臭いと思ってしまうのです。そして、誰かに教えてもらうということを避けるための努力を始めます。

 

かつては身近な人に教えてもらうのが嫌だと思ったら、本に頼るとか専門の教室などの門を叩くしかありませんでした。しかし今では便利なもので、インターネット上には自分が修得したい知識や技術を、効率的かつ無料で入手することができます。

 

では現代の人は誰かに教えてもらうということをせずに、知識や技術を修得することができるようになったのかと言うと、どうやらそうではなさそうです。もしも、インターネットの恩恵だけで誰もが同等に欲しい知識や技術を修得することができるのだったら、こんなにも似たようなコンテンツが世の中に出回るはずはありません。もちろん、人によって覚え方やコツの掴み方は異なるため、教え方によって理解や納得の仕方にも差はあるのは仕方ありません。しかし、基本的なことはどれを見ても同じ情報が掲載されております。

 

では、基本的な情報が1つのコンテンツに集約せずに、あちこちに類似のコンテンツが散らばっているのでしょうか? ●●道場や△△教室といった直接教えてもらうタイプの修得方法ならば、地域や地区ごとに支部みたいなものがあってもおかしくはありませんが、インターネット上にある情報、知識や技術の基本や応用は誰もが同様にアクセスすることができます。それなのに情報は散らばっているのは疑問です。

 

これについては憶測ですが、インターネット上にある情報でもなお、人に教えてもらうということに抵抗を感じているのだと思います。直接誰かに教えてもらうだけではなく、その誰かがテキストや画像や動画といった形にして教えるとなっても、何だかやる気が削がれるのです。

 

そもそも、電化製品を買った際、説明書をちゃんと見る人はどれくらいいるでしょうか? 組み立てるタイプの家具を買ったとき、部品がちゃんと揃っているのかを確認する人はどれくらいいるでしょうか? ・・・おそらく「だいたい、どれも使い方は同じだろう」とか「やっているうちに分かるっしょ」と言って、適当に取り扱い始める人が大半ではないでしょうか。もちろん、最近の商品は直感的に扱える物も増えておりますし、プラモデルですら組み立てが簡潔になってきております。

このように、人に教えてもらわなくても簡単に知識や技術の情報が入手できる現代においても、まだ説明書を見ないくらいの人たちが当たり前のようにいるのですから、どんなにインターネット上に色々な情報があっても、その情報そのままに勉強したり練習したりする人たちもまた少ないと思われます。

 

そうして、知識や技術を習得したくてインターネット上の情報を覗いたものの、説明書すら読まない人たちが行うことは、やはり「まあ、だいたいこういう感じでしょ」「大雑把にはわかった」といって、しだいに「あとは自分なりにやってみよう」という、いわば『自己流』に走るわけです。

 

お分かりだと思いますが、この『自己流』になってしまう人たちの多くは、基礎的なことすら理解していない、できていない状態がほとんどです。それなのに分かった気になって、さらにちょっと見聞きした情報やイメージをミックスさせてしまい、完全に方向性を間違えたり、偏った学習方法をしてしまう事態になるのです。当然、その結果は散々でしょう。自分はやっている気になっているだけで、無駄な時間を過ごすことになるだけです。

 

結局、面倒でも誰かに教えてもらって、その教えのまま学習するのが近道なのです。面倒かもしれませんが、これは実生活でも活かせることです。私たちは言われた通りにやらずに自己流でアレンジして、結果的にうまくいかないことがあります。

仕事においても、このような自己流の弊害はありませす。例えば、細かく作業指示を出したにも関わらずに、基礎的なスキルがない部下や後輩が自分なりにアレンジしてきて、さも「自分はこんなこともできますよ」とか「求められた以上の成果でしょう」と得意げになっていることがあります。しかし、こちらが求めていることは作業指示どおりにやって、求められた通りの成果を出すことです。場合によっては嬉しい誤算となることもありますが、求められている手順や成果より下になっても上になってもいけない場合もあります。また、「〇〇だと思っていました」というイメージや思い込みで物事を進める人もおりますが、不確定なことは確認するということはプロとしての基本です。それなのに、思い込みの状態のまま進行するとなると、それもまた自己流と言えます。

 

自分が身に付けたい知識や技術があるならば、あるいは求められている成果を見せるならば・・・

 

 ・ひとまず、言われた通りにやる

 ・求められている成果を目指すことを第一とする

 ・イメージや思い込みをやめる

 

・・・ということになるのではないでしょうか。

 

とりあえず、新しい電化製品を買ったら、せいぜい説明書の「もくじ」くらいは読んでみても良いのではないでしょうか?

 

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。