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「世の中の平均」に自分の生き方を合わせなくてもいい

アラフォー童貞のODです。

 

 

平均寿命というものがあります。その国の人間が一生を何年くらい生きるのか? という統計をまとめたものです。これにより、人生100年時代などと言われるようにもなり、健康ブームや長寿大国ニッポンなどと言われております。

 

ここで多くの人が勘違いしているのですが、平均寿命とは一定期間において日本で亡くなった人たちのお亡くなりになった時点の年齢を集計しているものであり、決して「✕✕歳まで生きることができる」という意味ではないことです。

人生100年時代と言われているから自分も100年は生きられると思ったり、平均寿命が85歳と発表されても確実に85歳まで生きられるという保証は何もありません。それなのに、私たちは「平均」という言葉の魔力に惹かれて、「世の中の平均がこうだから、自分もそうだろう」と思ったり、「平均に合わせて生きたほうが安心」という思い込みをしてしまいます。

 

そもそも平均とは何なのでしょうか? 本記事の場合における平均という言葉の意味は、複数の数を並べた時の中間値であり、かつ複数の人間の共通項から見出される最小公約数的な行動や環境などを指します。そして、世の中には多くの分野において平均が用いられます。上記のような平均寿命だけでなく、平均点、株価、体重、身長、年収と身近なものはたくさんあります。天気でも「例年並み」という言葉もあります。

 

さて、私たちはこの「平均」というものに依存してはいないでしょうか? 視覚的に数字や何かしらのカタチで表現される「平均」を見たとき、それに一喜一憂していないでしょうか?

例えば、周囲より平均より下になってしまうことを恐れていないでしょうか? 反対に、周囲より平均より上だと分かったとき優越感を抱いてしまうことはないでしょうか? あるいは、平均的であると分かって、ほっと胸を撫でおろして安心してしまうことはないでしょうか?

本来であれば自分は自分であるので、平均より上だろうと下だろうと、平均的であろうと関係のない話です。平均の線引き上にいようがいまいが、その自分は良くもないし、悪いこともありません。そもそも、平均というのは他の人と同じという意味ではありません。

 

平均というものは安定しているようで、実は不安定な基準です。時期によって数字は変動しますし、社会情勢や技術が変化・進歩しやすい世の中においては3年もしたら生活水準は大きく変わります。3年前の平均を現在の自分の生活に適用して安心するというのは、逆にその時点における平均に適合できていないということでもあります。

世の中の平均で言えば、人生設計なんかが分かりやすいと思います。これまでの人生設計・人生のロールモデルは、生まれてから幼少期を過ごし、学校教育を受け、高校か大学を出たら社会人として仕事をします。そして、65歳を過ぎたら年金や退職金をもって余生を迎えるという流れを多くの人がイメージしていました。

・・・が、それも現代では適合しません。それこそ平均寿命が延びている現代では、国も65歳を過ぎても働ける環境があることを推奨しておりますし、肉体が健康であれば別に継続して働いても問題ありません。何なら、年金制度に不安を感じている人は率先して働くことを選択しておりますし、生活がままならないので肉体に鞭打って働いている人だって増えています。

さらに、地球環境が変わっている状況下、昨今では天気予報だって「例年並み」という言葉が適合しなくなってもいます。むしろ、「異常気象」や「〇年に一度の✕✕」といったフレーズのほうが当たり前になっております。春夏秋冬がベースとはいえ、当たり前に同じ天候が繰り返されることはなくなっております。毎年異なる気象状況であると思ったほうがストレスはないのかもしれません。

また、平均といえば大衆が好んでいるもの、人気のものを自分も好きである必要はありません。これだけ多種多様な娯楽や趣味などがあるなかで、全員がテレビでバラエティーやドラマを見ているわけではありませんし、情報化社会においては埋もれているエンタメが何かの拍子にスポットを浴びることだってあります。それらに対して、100人が1つのジャンルを見ることはありません。50人はAというコンテンツを見れば、30人はBという音楽を聞いて、15人はCというお笑いを見て、4人は運動して、1人はDというアングラな趣味に没頭する・・・というのも問題ありません。ここでの50人は確かに平均的な趣味嗜好かもしれませんが、アングラな趣味を好む1人がおかしいということはありません。

仮にAというコンテンツが好きな50人が「Dが趣味なんておかしい!」「Dというジャンルが大嫌い!!」と言われても、「そうか、Dはおかしいのか。みんなDが嫌いならば自分も好きでいるのをやめよう」とも思わなくても良いのです。

 

 

別の視点として、有名人や著名人の生き方に憧れて真似しようとする人がいますが、そのような人たちの生活を平均としてしまうと色々と面倒になります。例えば、プロスポーツ選手が毎日徹底的に肉体や技術を鍛えて試合で成果を挙げていることを基準にし、それを会社勤めの人が「自分も同じくらい鍛えて、憧れのスポーツ選手に近づこう」とするのは無理があります。そもそも、日常で仕事をしながら同等のトレーニングをしていたら時間も体力も持ちません。

これは大袈裟な例ではなく、結構多くの人がやりがちなことです。憧れの生活や目標達成のためのプロセスの平均を、着飾ることが仕事の有名人やプロ・専門家と呼ばれる人たちを標準としてしまっているので、身の丈に合わない生活になってしまうのです。

 

私たちは、世の中に公表されている様々な「平均」に惑わされてい生きています。平均は悪い物ではありませんが、あくまで統計結果の1つであり、公的な基準を設けるために活用されるものです。そのため、一個人に合わせようとすると不都合が生じてしまいます。また、統計を集めるための母数が少ないと正確性も疑わしいですし、統計のテーマの社会的にマニアックだったり狭い分野だと、個人の意見がさも統計的な意見としてまかり通ってしまうという事例だってあります。

 

つまり、統計というのは参考程度にしつつ、"その時点の自分"の身の丈にあわせた生活を送っていたほうが健全であるということです。言うなれば、それは自分自身の平均を自分で作るということでもあります。そのためには、参考にした平均も含めて、様々な視点や意見を取り入れつつ、自分で決定・判断をして、時には失敗することもあるけれど、しだいに「ああ、これが自分ってやつなのかな・・・」と気づいていくことが大切ではないでしょうか?

 

なお、"その時点の自分”と特筆したのは、人は成長するものですので、自分のなかの平均を上げることもできると言いたいからです。今はできなくても、鍛錬や学習や試行錯誤を繰り返すことにより、自分の平均に対しての底上げをすることはできます。決して「駄目な自分のままで生きろ」「ずっと高い能力のままの自分いられる」というわけではなく、自分の平均に対しての期待ということをご了承ください。

 

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。