アラフォー童貞は〇〇と考える

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「常識ある人たち」が「常識のない人(たち)」を攻撃する理由

アラフォー童貞のODです。

 

ブログで色々と偉そうに書いていますが、現実世界においては「自分は物事を知らないなー」と思う場面がたくさんあります。周囲から「そんなことも知らないの?」と呆れた顔をされることもあります。

 

少なくとも5年以上の前の私であれば、自分の無知さを恥と思っていたので、知らないことをごまかしてその場をしのいでいました。いえ、今にして思えば周囲はおそらく、私に対して「こいつ、何もわかっていないうえに、ごまかしやがった」と思っていたに違いありません。

しかし、現在は知らないことがあっても隠すことは少なくなりました。何かしらのテーマについて自分が無知であっても、逆に「あー、それは知らないです」と自ら伝えます。それは無知であることを知られるデメリットよりも、無知であることを隠したままのデメリットのほうが大きいからです。もっと言えば、無知であることを開示したほうがメリットが良いことに気づいたからです。

 

よく世間が指摘する無知として「あいつは常識がない」というものがあります。しかし、常識とは何なのでしょうか? 就職活動において本屋で一般常識問題集なるものを参考にするでしょうが、それが常識なのでしょうか? ・・・と、何も本記事では「常識とは何か?」というものを問いたいわけではありません。

何を言いたいのかというと、周囲から「あいつは常識がない」と言われている人は、実は常識がないわけではありません。それは逆の視点から見ると「周囲が常識を知っている」ということなのです。

別に言葉遊びをしたいわけではありません。人間は自分が学んだこと、経験したことを「知っていること」として自分の中で定義づけします。そうして、それが周囲も同様の「知っていること」を持っているときに、そこで「常識」が形成されます。その「常識」は一部のコミュニティだけに限定されていることもあれば、社会全体の共通事項であることもあります。いずれにせよ、ここで「常識を知っている人たち」と「常識を知らない人たち」に区分されます。

問題なのは「常識を知っている人たち」が「常識を知らない人たち」をマイノリティな異常者のように認識するようになることです。それだけならばマシなほうで、直接本人に「(多くの人が知っている)常識を知らないお前はおかしい!」と排他的な行動に出る事です。

 

・・・しかしこれはおかしな話です。上記のとおり、常識というのは個人の学習と経験であり、それが一定の集団において共通事項になっているからこそ成立します。もし、1人1人が違う学習と経験をしてきたならば常識というものは構築されないことになります。つまり、一歩間違えば「常識を知らない人」となっていたのは、排他的な行動に出ている「常識を知っている人たち」も同様ということになります。

 

「一歩間違えば」というのは語弊があったかもしれませんが、学習や経験というのは、そもそも本人の興味や好奇心、それらを盛り上げるような環境要因、周囲に迷惑をかけたときに教えてくれる周囲の大人たちの存在、など小さいものから大きなものまで本人に影響を与える要素はたくさんあります。そこで周囲とは違う言動や思考をするような個人が、同じような学習や経験をしてきた集団に入ったときに「常識がない」と言われるのは酷なことではないでしょうか? 

 

このように、常識というを取り上げても、たまたま同類の学習や経験をしてきた「常識を知っている人たち」が正義であり、それ以外の環境で育ってきた「常識を知らない人たち」が悪である、というような考え方に陥ってしまう状況があちらこちらで見受けられます。

 

さて、なぜ「知っている人たち」はここまで「知らない人(たち)」を糾弾したり、排他的にしようとするのでしょうか? 

・・・それは「知っている人たち」は怖いのです。不安なのです。「知らない人(たち)」が自分たちの集団にいることで、何かしらの問題が起きるのではないかという事が怖いのです。

 

実際、「知らない人(たち)」というのは、その集団の常識からかけ離れたことをしたり、予想外の反応をしたりするので結果的に迷惑をかけたり、面倒をかけたりします。そうなると、それまで同様の常識で成立していた集団が乱れることがあります。それに対応したり、「知らない人(たち)」に自分たちの常識を覚えてもらおうとしたり、感情的になってしまうこともあるでしょう。そして、一番恐れているのは「知らない人(たち)」の存在により、その集団のあり方が変わってしまうことです。

人間は安定を求めます。歴史的なクーデターや内紛というものがどのようなタイミングで起きているのかを調べると、多くが「ある程度のインフラや経済基盤ができているのに、それを変えようとする動きがあったとき」ということが分かっています。つまり、良くも悪くも安定して生活しているのに、それを変えようとする動きや存在があると、人間は今の生活を維持するために猛烈に反発・反抗するのです。

 

つまり、自分たちは「常識がある人たち」と思っている人たちは、「常識がない人(たち)」を人間的に毛嫌いしているわけではなく、今の生活を変えてしまう可能性が高い存在として見なしてしまうため、「あいつは常識がない」という形で表現して排他的な行動をとろうとしたり、こちらの常識で矯正しようとするのです。

 

このように書くと「常識のない人(たち)」に優しくしましょう、という意味に捉えられてしまいますが、そうではありません。本記事のテーマは、常識ある人たちが常識のない人(たち)に対して攻撃的になってしまうこと、「あいつは常識がない」と問題視してしまうことの潜在的な理由を考察しているだけです。

「常識のある人たち」は「常識のない人(たち)」へ自分たちの常識を教えてあげるのもよいですし、その人はその人として良いところを見つけるということでも良いです。何なら、「あなたはここにいるべきではない」というファンタジーの物語のような台詞を伝えて集団から出しても仕方ありません。人間は適応力というものがありますし、どこに行っても生存しようとする可能性も秘めています。

 

ただし「自分たちの価値観がすべて」というのもまた問題です。集団が発展するためには時には異端と思えるものでも取り入れてみるという試みも時には必要であります。もしかしたら、現在の常識という執着から抜け出すと、案外「常識がない人(たち)」の側のほうが生きやすかったりすることもあるのではないでしょうか?

 

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。