アラフォー童貞は〇〇と考える

アラフォー童貞が仕事、時間、性など考えたことをまとめています。

悪気のある人はいない、ただ「無知」なだけ

アラフォー童貞のODです。

 

 生きていると不愉快になる人やムカつく人など、感情を乱す人に出会います。そのようなとき、私たちは色々な反応をします。「とりあえず受容する」「受け流す」「距離をとる」といった自身の心を守ることもあれば、「反発する」「敵対する」といった攻撃態勢をもって相手の存在や言動を駆逐しようとすることもあります。

 このような反応は攻守どちらが良いのかは判断がつきませんが、できることならば口論や暴力などの対立関係は避けたいものです。受容の姿によって相手を認めることができれば本来の穏やかさを得ることはできるでしょうが、それはかなりの精神修行が必要です。そうでなくても、ある程度の大人ならば受け流すことが処世術と言えますが、どうしても腹が立ったり苦しかったりするならば環境を変えるという意味で、その場を離れるというのも手です。

 私も仕事で職員を指導する立場にいると、「なんでこの人はできないのだろう」とか「優先的な仕事があるののに、どうでも良い仕事ばかりする」「お客様とのやりとりを見ていると、目を覆いたくなる」といったことが多々あります。そのようなときは、必要に応じて呼び出して指導やアドバイスはしますが、「まあ、ある程度のことには目をつぶろう」と思うこともあります。一方で、あんまりの言動や仕事の進め方にカッとしてその場で怒鳴りたくなるときもありますが、そのようなときは一度その場を離れるときもあります。ときには、意図的に日を改めたり、自分の沸き上がった感情をあくまで指導点や課題点としてノートに書きつづることで冷静さを保つこともあります。(ちなみに最近は感情をノートに書く頻度が高くなり、少し腱鞘炎ぎみです)

 

 このような取り組みをしていると、自分が問題と思っている人、不愉快に思ってしまう人、自分の感情を乱す人というのは総じて「悪気があるわけではない」ということに気づきます。これは私自身の気づきもありますが、最近ストア哲学をテーマにした本を読む機会が多いからかもしれません。

 ストア哲学においては色々な派生思想や有名な偉人は多いものの、私は主にエピクテトス氏をテーマに取り上げた内容を好みます。その中で、人間は「悪」というものを意図的に行っている人はおらず、「無知」によって社会や身近な素内に迷惑をかけてしまうことがある・・・という考えがあります。

 そもそも、「悪」という考え方は人間が定義し、世界共通と思われる倫理的なこともあれば、国や地域によって変わることもありますし、とあるコミュニティ限定のものもあります。何なら、世界中のたった1人だけが考える「悪」もあるでしょう。人間が定義しているものの、ひどく曖昧なもの、それが「悪」なのです。さらに、なぜそれが「悪」なのかを教えるのはひどく骨が折れます。小さな子供に赤信号を渡っていけない理由を教えるよりも、とりあえず赤信号は渡ってはいけない、「赤信号で横断歩道を渡るのは「悪」なんだ」と教えるしかないのです。

 しかし、子どもが赤信号を渡っていけない理由を理解できないのは「無知」だからです。「自分が行きたい道があるのに、どうしてそこに向かってはいけないのか」「自分は向こうの道に行きたいのに、鉄の機械が赤い色ならば渡ってはいけないと言われる」と思っている子供は、価値観が異なる人間同士が同じ世界で生きるには、法律などのルール、この場合は体制的に「赤信号のときはその道を渡ってはいけない」とするしかないということを知らないのです。

 

 少し話がくどくなり恐縮ですが、自分にとって不愉快に思う人、ムカつく人がとる言動や考え方というのは、相手が「無知」だから「悪」に見えると考えると、少し楽にならないでしょうか。もちろん、「無知」というのは何だか上から目線ですし、まるでこちらが高尚な人間のような意味に捉えられて感じが悪くなってしまいますが、そういう意味ではありません。あくまで心が軽くなるための考え方の1つです。

 例えば、他人の悪口や噂話ばかりしている人は、実際は周囲から嫌悪されているけれども、その人自身は自分の話題によって周囲も楽しんでくれる、と思い込んでいるかもしれません。モテると思って女性に自分の優れていることばかり話す男性は、どちらかというと女性は話を聞くよりも自分の話を聞いてもらいたい、ということを知らないのかもしれません。上司から見て的外れな仕事をしている人は、実は職場にとって価値ある仕事をしている優秀な自分、と思っているかもしれません。

 このような人たち相手に「あなたは間違っていますよ」と指摘したり、非難したとしても「何でそんなことを言われなきゃいけなんだ!」と火種が燃え上がって、口論や対立のは当然でしょう。会社の方針や上司の指示とは違うことがやっている人は、さぼっているわけでも、不真面目なわけでもなく、ただ悪気なくポイントをずれた仕事をして、かつ自分には価値があると思っているだけなのです。

 

 このように書くと、まるで悪気のない人は悪くない、温かく見守ろうという話に聞こえますが、そうではありません。相手にこちらの視点を伝えたり、指導や注意をすることで気づきや成長のきっかけを与えることは必要だと思います。しかし、ここで相手をこちらの考える人物にしよう、すぐに行動や考え方を変えてやろう、などとは考えてはいけません。これも上記のエピクテトス氏の教えの1つとしての「自分では変えられないものを、無理に変えようとしない」という教えでありますが、私たちは自分は優秀で、ありとあらゆるものをコントロールできると思い込んでいますが、実際はままなりません。それならば、変えられないものは変えられないと割り切ったほうが、心の平穏が得られるというものです。

 

 つまり、不愉快な人、ムカつく人、仕事ができない人などに出会ったら、とりあえず改善してほしい点などをやんわり伝えつつ、その後もこちらがストレスになるようならば、最低限の関わりにしたり、可能ならば関わりを断つということもしたほうが良い、むしろそのようにして良い、と言うことです。悪意のない、「無知」な他人を変えることなんていうのは、一個人では不可能なのですから・・・。

 

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。 

ストア哲学エピクテトス氏について詳しい方からすると、本記事の話は違うというご指摘もあるかもしれません。私も勉強中なのでご了承いただけると幸いです)