アラフォー童貞は〇〇と考える

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正しい愚痴とはあるのか?

アラフォー童貞のODです。

 

 仏教には「三毒」と呼ばれる、穏やかに人生を送るうえで避けるべき3つの煩悩があります。詳しく三毒で検索するとすぐ分かりますので割愛しますが、そのうちの1つに「愚痴」があります。他の2つに比べて、言葉としてすぐにピンとくると思います。

 これは誰もが生きていると必ずしていまうものであり、頭の中で悶々とずっと考えていられるものであり、誰との会話の中で口から言葉として簡単に出すこともできます。現代ではスマホなどのデジタルツールを使って、直接的な言い方や人物や場所などを特定しなくても、ブログやSNSなどのインターネットに乗せて発信することができます。

 

 しかし、愚痴というのは、頭で考えたり、会話の中で言葉に出したり、インターネット上で発信することによって、愚痴を出した本人はさっぱりするでしょうか? ・・・少なくとも、私はそうは思いません。むしろ、愚痴は考えれば考えるほど、言葉にすればするほど、特定の人物や環境に対してのイライラや不満などのネガティブな感情は、解消されるどころか、どんどん大きくなっていきます。おそらくですが、仏教で三毒の1つとして「愚痴」を避けるようにしているのは、このあたりにあるのだと思います。

 愚痴を言うことによって、私たちは何となくガス抜きができているように思ってしまいますが、実際は「そういえば、あんなこともあった」「思い出したら、あの件もムカついてきた」「あいつ、どうにかなんねーかな」などと、ネガティブな感情はどんどん膨れ上がっていってしまいます。そして、それらを解消しようとまた愚痴を言うのですが、ガス抜きは一向にできず、愚痴によってどんどんイライラや不満が増していく、という負のスパイラルに陥ってしまうのです。

 

 このように書くと、「愚痴を言わずに我慢すればいいの?」と思われるかもしれません。確かに、それも考え方の1つにあります。最初は愚痴を言いたくなるような出来事でも、時間が過ぎればどうでもいいこともあります。あるいは、ちょっとした意識の移り変わりですぐに、頭が別のことに切り替わることだってあります。仕事で落ち込んでいても、ちょっといいなと思っていた異性から声をかけられただけで、落ち込んでいた気持ちが晴れることもあります。私もイライラしているときに、立ち寄った本屋さんで読みたかった本が思いがけず見つけたときは、その後は早く家に帰って本を読みたい、という気持ちで心と頭はいっぱいになります。もう、ウキウキです。大抵の場合は、この程度のものなのです、人間のネガティブな感情なんて。

 

 とはいえ、どうにもこうにもネガティブな感情が取れないことはあるもです。多くの人間が抱えるネガティブな感情とは、他人の対してのイライラ、環境に対しての不満などがほとんどであり、それらが溜まりに溜まって愚痴は発生します。どんなに愚痴は駄目なことだと分かっていても、頭の中で留めようと思っていても、一度言葉にしてしまうと溢れてしまいます。しかし、上記のとおり、溢れんばかりの愚痴を言ったところで、思い出せる分・言える分だけ愚痴を言ったとしても、決して満たされることもありませんし、我慢していたときの排泄後のようにスッキリするようにもなりません。

 

 それはなぜかと言うと、愚痴というのは、自分がイライラや不満などを抱いている他人や環境に対して、何とかしようとしている状態だからです。しかし、他人や環境というのは個人の力では"絶対に"コントロールすることはできないので、いくらそれに対して何とかしたいと思って、それを愚痴と言う形で言葉にしても、"絶対に"解消されることはないのです。

 何とかしよう、コントロ―ルしよう、変えなくては・・・と思いたくなる気持ちはわかります。変えること、改善することこそが、自分のストレスを解消する術であるということは多くの人は理解していますが、それはあくまで個人という範囲だけの話です。それを他人や環境に適応しようとしても無駄であり、何とかしようと解決策を模索しようという意図で愚痴という形でアウトプットや考察・分析したところで、ネガティブな気持ちが増すだけで解決にはならないのです。しかも人間の脳は、同じことを繰り返し考えた分、記憶として定着してしまうので、ネガティブな感情やその対象である他人や環境や出来事などが頭から離れなくなってしまいます。

 

 では、やはり愚痴は言わないほうがいいのでしょうか? ネガティブな気持ちは時間と共に解決するのを待てばいいのでしょうか? もちろん、愚痴は言わないに越したことはありません。避けるべきです。しかし、時間と共に解決するのを待つには、その間は気が休まらない状態が続くということになってしまいます。

 

 そこで推奨したいのが、「愚痴」という形でイライラやネガティブに思ってることを、何とかしようとする考えや発言をするのではなく、まずは出来事や自分の感情までで留めることです。例えば、いつも書類の締め切りを守らない人がいたとします。その人に再三注意するけれど、いつも言い訳をしては二、三日過ぎて、適当に作ったような書類を提出するのに我慢できなくなり、そのたびに同僚と「あいつは駄目だ」「社会人失格だ」「どう言えば分かるんだ」などと愚痴を言いたくなります。

 このような場合、まずやるべきことは、出来事と自分の感情を見つめることです。この例で言えば「いつも締め切りを守らない人がいる」「言い訳する人である」「それに対して、私は腹が立った」・・・ということで留めるに終わるのです。そこで締め切りを守らせるようにはどう言ったらいいかとか、今度やったらこう言ってやろうとか、社会人失格などと評価を下すなどはしなくていいのです。あくまで自分が思ったことだけで終わらせることで、それ以上ネガティブな感情を広げるような愚痴の域まで足を踏み込ませないことが大切なのです。愚痴の域まで入ったところで、それ以上の思考や言動は決して心穏やかになることはないのですから。

 

 本記事はあくまで、イライラや不満などのネガティブな感情を引き起こすような人物、環境、出来事に対して、心穏やかであるための方法です。そのため、根本的な問題などは解決は直接的にはしません。こちらが出来事や自分の感情を見つめるだけに留めたところで、締め切りを守らない人が急に提出期限を守るようになることはありません。他人は変わらないのですから。

 しかし、こちらの気持ちは穏やかなままです。書類の提出を守れない人が、どのような振る舞いをしようと、どんなに言い訳しようとも関係ありません。よく「その人の良いところを見ましょう」などと言いますが、日常の振る舞いのよろしくない人の良いところを見つけようとしても、それは困難でしょう。それだってストレスになります。

 それならば、心穏やかでいるためには、他人や環境に振り回されないためには、自分の身に起きた出来事とそれに対して自分が抱いた感情は何か、ということだけにフォーカスして、それで終わりとするだけしかないのです。

 

 正しい愚痴というのはありません。しかし、愚痴の一歩手前で自分の感情を見つめることまではできます。というか、自分の感情を見つめることは「内観」と言って仏教でも大切な考え方であります。それこそが、自分に対して素直であるということであり、愚痴という域に踏み込まずともできる、心穏やかに生きるための考え方、と言えるのではないでしょうか。

 

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