アラフォー童貞は〇〇と考える

アラフォー童貞が仕事、時間、性など考えたことをまとめています。

「慣れる」とは何か?

アラフォー童貞のODです。

 

 「何事も経験」「まずはやってみること」。このような考え方には同感です。空振りに終わった事や結果につながらなかったことも含めて、すべては経験値になります。また、あれこれ考えているだけで立ち止まっているままよりは、とりあえず行動に起こすということで、失敗も含めて結果を得ることができます。

 これらの類似として「何事も慣れだ」という言葉があります。例えば、訪問営業が苦手な人に対して場数を踏めば、話し方を覚えていったり、怒られることや拒否されるということで胆力が培われていく、という考えがあります。そうして、新人営業マンが始めは嫌々ながらインターホンを押しては、そのたびに迷惑そうな顔をされながらも、時には話を聞いてくれる人もいて安堵したりします。訪問営業が効果があるのかどうかの話は別として、次第にインターホンを押すことに躊躇しなくなり、嫌な顔されても「次だ次」と気持ちを切り替えられるようになっていきます。

 

 また、肉体的なこともあります。仕事を覚え始めのうちは、とにかく人に気を遣うし、頭も使うし、肉体も疲労します。それまでのキャリアがあったとしても、分野が違えば1から覚えることもありますし、同じ業界でも職場によっては全く違う手法やツールを使っていることもありますので、これもまた1から覚えるのと同じことです。

 このような状況が続くと、はじめのうちはやる気に満ち溢れていても、徐々に心身に負担がかかり、時には体調を崩すこともあります。これは修行僧の人たちにもあるそうであり、宗派や修行道場によっては新人の修行僧が体調を崩すと未熟者扱いされるという話もあります。お寺のお坊さんなのだから慈悲深い心で看病されると思いきや、未熟者扱いされるとは、何だかひどいと思われるかもしれません。しかし、私はこの話を聞いたときには、未熟者と言われるのは、その通りだなと思いました。

 何も、未熟者というのは別に非難しているわけではありません。私の解釈ですが、未熟者と言われるのは「このように体調を崩すのが、今のあなたのレベルです。まだまだ、向上することがありますよ。覚えることはありますよ」と言っているのだと思います。そのうえで「続けていくと、肉体も適応しますよ」ということを示唆しているのです。別にポジティブに考えているわけではありません。実際に、人間の体というのは環境に適応する作用があります。骨折すれば骨は強くなりますし、何かしらの病原菌が原因で発熱などの症状が出た後は抗体ができていきます。いずれも休息と回復が必要ですが、このようなことを繰り返すと、徐々に負担に思っていたことが、難なくこなせるようになるのです。それが適応であり、未熟者というステージからの脱却になるのです。

 

 つまり、「慣れる」とは一言で言っても、分類するといくつかあります。本記事で取り上げた例も含めて、私は「慣れる」ということには次の2つがあると思います。

 

慣れるとは「安心」

「ああ、大丈夫なんだ、自分は変じゃないんだ」と思えること。

それにより、ためらいなく行動できるようになること。

 

慣れるとは「適応」

肉体の変化、考え方の変化。未熟者からの脱却。

心身ともに丈夫になり、環境に対しての防御力や耐久性が高まること。

 

 これら「安心」と「適応」ができるようになると、何かあってもびくともしなくなるし、そこから適切に判断して行動することができるようになるのです。それが「慣れる」ということなのです。海外を飛び回っている人や、頻繁に引っ越している人たちがおりますが、そのような人たちは定住するのが嫌というよりも、生活の拠点を変えることに慣れているだけの話なのです。また、新しい着想が生まれたらすぐに行動に移すことができる人も、失敗も含めてわずかでも結果を出すということに慣れているのです。

 また、「習慣」という言葉にも、「慣れる」という文字が入っております。この言葉からも分かるように、日々当たり前にやっていることは、自分にとって慣れているから当たり前なのです。その道中にはやはり、不安もあったでしょうし、うまくいかないこともあったでしょうが、やってみたら「ああ、こんなもんか」とか「次にこうやってみたらどうかな」という気づきや試行錯誤があって、次第に当たり前になっていきます。これら「安心」と「適応」によって習慣づけがなされるのです。

 

 最後に。

 よく「慣れるまで頑張れ」とか「そのうち慣れる」という指導や教育をする方がいらっしゃいますが、それだけでは潰れてしまう人もいます。すべての人が新しいことに対しての「安心」と「適応」の術を身に付けているわけではありません。教えるならば、「とりあえず飛び込んでみろ」「やってみれば分かる」だけでは不十分であり、それは指導や教育とは呼べません。同行してやり方を見せたり、理由や意義を伝えたり、想定される反応や対応方法などをレクチャーしてあげることが必要です。もちろん、意図的にこれらを省略する場合もあるでしょうが、色々なことがすぐに分かる現代では、「なぜこれをやるの?」をちゃんと伝えてあげないと、慣れる前に心身を壊してしまったり、面白くないと思って辞めてしまうこともあります。それでは勿体ないですし、そのような人たちを生み出したくはありません。

 いつまでも手ほどきをしてあげる必要はありませんが、一歩踏み出すための、慣れるための「安心」と「適応」のための手伝いをして、一人で考えて、行動する喜びを掴める人材に育てることが重要なのではないでしょうか? それが「慣れる」ということの醍醐味ではないでしょうか?

 

 ここまで読んでいただき、ありがとうございます。