アラフォー童貞は〇〇と考える

アラフォー童貞が仕事、時間、性など考えたことをまとめています。

相手が委縮してしまう「怒鳴る指導」は、逆に成長をさまたげる

アラフォー童貞のODです。

 

 学生でも社会人でも指導する・される、ということは必ずあります。この手の話になると「指導をするとき、相手を怒ることは必要か」という議論がなされます。私は、相手の言動や物事の進め方によっては、タイミングを見計らって怒るということは、指導の1つの方法としてあっても良いと思っております。

 実際、私も仕事では指導する立場にあるので怒るということを意図的に行うことがあります。それは、1人1人の性格や立場や力量によって内容は異なりますし、なるべく大勢の前ではなく、指導の場面をお互いに予定化して実施しております。同時に、指導においてやってはいけないことも意識しております。

 

 それは、指導する相手を「委縮させてはいけない」ということです。

 

 時々、お店の中でも訪問先でも、お客さんがいるにも関わらず、先輩が部下や新人に対して怒鳴ったり、恫喝しているような教え方をしている人がおります。これはよろしくありません。特に、お客さんがいる前では決してやるべきではありません。お客さんも気まずくなりますし、「あそこの会社は熱心に指導しているな」という印象を持たれることはありません。

 

 そもそも、人を委縮させても知識や技は得られません。

 もし得られるものがあるとしたら、それは「恐怖心」だけです。

 

 「どうしたら、うまくいくだろう」「練習したとおりにやろう」という健全な考えではなく、「失敗したら怒られる」という恐怖心だけで物事に取り組むことになります。それは、失敗したときに怒られたり恫喝されたりした記憶が、強烈かつ鮮明に残ってしまっているためです。さらに、多くの人たちは失敗に対して落ち込んで、自分の脳内で何度も何度も「なんであんなことをしたんだ・・・」という後悔、「こんなこともできない自分なんて・・・」と自己批判を繰り返してしまいます。そこにさらに、先輩などの指導員などに怒鳴られたなどの恐怖の記憶が追い打ちで押し寄せます。

 こんな状態になって、失敗と怒られた当日または翌日に「よし、昨日の失敗で自分は成長の糧を得た」「同じ失敗は繰り返さない・・・いや、うまくやるぞ」などと前向きに考えらはしないでしょう。翌朝になって「ああ、今日もまた失敗したらどうしよう」「今日もあの先輩と一緒だ・・・また怒鳴られる」などと思ってしまいます。何なら前日の夜に悪夢を見たかもしれません。そのくらい、失敗に対して委縮してしまうくらい怒鳴られた恐怖心は、簡単に拭えないですし、その恐怖心で成長することは決してありません。

 

 確かに失敗は成功や成長のうえで必要であり、誰もが通過することです。それを活かして次に進めるのです。しかし、多くの人たちは、失敗の活かし方を知りません。そのため、失敗を失敗のまま終われせてしまうため、何度も同じ失敗を繰り返してしまうのです。

 そこで、指導する人というものが重要になります。指導する立場というのは、指導できるレベルにあるのと同時に、数々の失敗を乗り越えてきたため、失敗の活かし方を知っています。つまり、指導する人の本当の役割というのは、失敗を責めたり怒鳴ったりすることではなく、失敗をした人(失敗に向かっている人)に対して、失敗を有意義なものにできるように導くことなのです。

 

 では、なぜ指導する人たちの中に、怒鳴ったり恫喝したりするタイプがいるのでしょう。それは単純に、自分がそのような指導を受けてきたから、というだけです。その経過を経て自分が色々と知識や技を身に付けてこれたので、指導する立場になったとき、部下や新人に対して怒鳴ってしまうのです。それが成長のためのプロセスであるとインプットされてしまっているのです。

 しかし、それは勘違いです。怒ったり恫喝することと、物事を覚える・知識や技を身に付けるというのは相関関係はありません。だって、怒鳴って物事を覚えたりできるのであれば、学校の先生が生徒に怒鳴れば、生徒たちのテストの点数だって簡単に上がるでしょうし、運動だって万能になるでしょう。走り回る小さい子供を、公衆の面前で怒鳴る親がおりますが、それで子供がすぐ大人しくなるでしょうか。考えてみれば、答えは見えてくるはずです。怒鳴ったくらいで人間は成長できない、変われないことの一端ではないでしょうか。

 もちろん、子供であっても、怒鳴られてすぐに大人しくなる場合は確かにあります。しかし、その表情を見ると恐怖心を抱いていることは、すぐ分かります。普段、親御さんからどのような躾を受けているのかは分かりませんが、怒鳴られたことで、何かしらの恐怖心が蘇った子供の心身が言うことを効かなくなる、のは何となく理解できます。ここでも、怒鳴った親は怒鳴ることで子供が言うことを聞くと勘違いし、恐怖心を植え付けているだけということを理解していないのです。

 教えること、注意することは大切ですが、怒鳴ったり恫喝したりすれば良いというのは、それは指導することの手段にしか目を向けていないだけです。人間性や立ち位置、スキル、悩み事や不安といった感情面など、個々の問題に向き合わないまま、むやみに怒鳴るというのは、指導員としてのレベルが低いと言えます。怒ることは指導の1つであり、ことあるごとに怒るのは指導方法を他に知らないと言わざるを得ません。

 

 本記事では適切指導に対しての詳細は割愛しますが、知識や技にポイントを絞った指導をするならば、まずは「どのような状態が正常であるか」「どのような状況が目標達成か」ということを示してあげる必要があります。そのうえで実践させてみたときに、「現在の状態は失敗である」「このままの状況は目標達成にならない」ということを比較で見せるのです。その正常な状態と失敗の状態の差分を少なくしていくことが、指導員の役割です。もちろん、個々の性質もあるうえ、指導を受けている側も覚えるための努力は必要です。決して受け身になってはいけません。

 そして、指導する側が求める及第点に至るまでの間は我慢が必要です。イライラすることだってありますし、自分の教え方に疑問をもっても良いです。それでも忍耐強く待ちましょう。それも指導する側の役割の1つです。決して感情を爆発させて、「何で言われた通りにできなんだ!」「この仕事、何回やってんだ!!」「前にも言ったろう!!」等と言ってはいけません。委縮しては脳は恐怖心で埋め尽くされ、知識や技を覚えるキャパシティがなくなってしまいます。別にご機嫌取りをする必要ないですし、無理にニコニコすることもありません。指導を受ける側にも、心や脳にわずかでも余裕を持たせてあげましょう、と言いたいのです。

 

 もちろん、指導する側も本気なのは理解できます。しかし、怒る一辺倒では、特にマニュアルや方法論が広まっている現代においては通用しません。むしろ、自分の教え方に疑問を持ち、どこがつまずいてしまうのかを分析することのほうが大切です。それは意外に、他の指導員や新人なども同様の課題になっていることもあります。それをテキストやマニュアルなどで形にすると、それも一つの価値になるのではないでしょうか。

 私は自分のできないことをテキストに落とし、それを同僚や職場に提示することを習慣にしております。「こんなのいらない」と馬鹿にされることもありますし、「こうも形にされると逆に動きにくくなる」と言われることもありますが、それはそのときです。自分用にするだけです。

 一方、周囲も疑問に思いつつも言いにくかったことを、明らかにすることもあります。。そのときは提示して良かったと思うだけです。なぜこのような習慣になったかというと、私は怒って指導することがありますが、そもそも怒る指導スタイルは心身ともに疲労してしまうので、あまり好きではありません。家に帰ってからも怒りを引きずることもあります。そのため、何とか具体的な形にして、それを共通のフォーマットにしているのです。

 

 このように少しでも怒る系の指導を減らし、指導を受ける側は委縮せずに成長できれば・・・と思っている次第です。

 

 ここまで読んでいただき、ありがとうございます。