アラフォー童貞は〇〇と考える

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「他人から嫌われるのが怖い」というのは自然なこと

アラフォー童貞のODです。

 

 本ブログでは「嫌われる」ということをテーマに幾度か記事を書いてきました。その中で、よくお伝えしていることは「他人から嫌われても問題ない」ということです。ここでいう問題とは、生きるうえで支障がないとか、想像しているような実害はさほどないということです。

 他人から嫌われることを気にしてアレコレ考えていても、実際は他人そこまで気にしていないことが多いものです。それどころか、こちらに興味がないことだってあります。そのため、「これをやったら変に思われるかも」「さっきの発言は失礼だったかも」と思っていたとしても、受け取った他人にとっては「え? 好きにすれば?」とか「へ? 何の話?」で終わることがほとんどなのです。

 

 しかし、そうは言っても、嫌われるということへの恐怖心は拭いきれないもの・・・。人から嫌われるのは嫌なものです。このように書いている私もまた、他人から嫌われるのは避けたいです。人づてに「あなたは好かれていない」と言われれば、「まあ、そこまで知らない間柄だしな」など思って自己完結できるかもしれませんが、「〇〇さん、あなたのことが嫌いだって」と言われれば、その瞬間に心臓がキュッとして、頭の中をあれやこれやとグルグルさせては「え、何で?」「何か失礼なことをしたかな」「あの件? いや、でもあれは・・・」などと、原因究明をしつつも、相手に嫌われていることを何とかしなければ、ということに全身全霊をかけようとします。

 

 それにしても、私たちは何故ここまで、他人から嫌われるということに敏感になってしまうのでしょう。別に嫌われたところで、個食や個人経営などが当たり前になっている現代、人との関りが多ければいいというわけでもないのに、1人か2人の関係がなくなったところで時間が過ぎれば忘れるはずなのに、ここまで「嫌われる」ということに対して恐怖心を抱くのでしょうか?

 

 おそらくですが、その理由は2つあると思います。

 1つは「自分という存在を否定されたから」ということです。正確には、「自分という存在を否定された”気になった”から」です。私たちは自身が関わっていることや自らが発信したことを否定されたときに、まるで自分という存在を否定された気になります。

 例えば、時間をかけて練り出したアイディアに対して、相手から「うーん、いまいちだね」なんて言われたら「何だと!」と怒ったり、「せっかく時間をかけたのにー、え~ん」と悲しんだりするものです。それは、自分のアイディアそのものではなく、自分という存在を否定された気になったからです。

 しかし、相手は何もアイディアを発したこちら側の存在を否定したわけではなく、アイディアに対して駄目出ししただけです。そのため、怒ったり悲しんだりされる道理はないわけです。むしろ、そのような相手には困惑するだけです。

 

 嫌われるというのも同様であり、世界に何億人もいる人間のうちの1人か2人から嫌われたところで、その人だってこちらの一面しか見ないで判断していることがほとんどですし、無理に他の面を見せたところで評価は変わらないでしょう。そのようなことをしてまで嫌われたことを撤回する必要はあるのでしょうか? 私はそうは思いません。なぜならば、他人から嫌われたところで、私自身の中にあるものは変わらないからです。他人から嫌われたところで好きな食べ物は変化しませんし、読書をする日課も変わりません。それどころか、他人から嫌われることを気にするよりも、新しい知識や考えを知り、そこから自分の中で考察や抽象化をしているほうが、私にとっての人生は有意義です。

 

 とはいえ、こちらが自分というものを持っていたとしても、拭いきれない心理があります。それは「社会という集団生活の中で嫌われたら、生きていけないのでは」というものです。これが「嫌われる」ことに恐怖する2つ目の理由として挙げられます。

 

 私たちは人間という弱い個体です。それを野生動物と同様に集団でいることで補い合っております。そして、文化や科学などの叡智をもって発展することで、その集団の力を強固にしております。

 その集団において嫌われるということは、集団を敵に回すという意味にも捉えることができます。つまり、生きていけなくなるということです。群れで生きる野生動物にもルールというものはあり、そこをはみ出る存在はよほど大きな力を持っていない限りは群れを追い出されます。そうすると、他の群れに怯えて暮らしたり、自分のエサ場や狩場を確保できることができなくなり、結果的に生きていくことができなくなります。これを防ぐためには、群れの中で従順に大人しく生きていくことがベターということになります。

 これは人間社会においても変わりありません。とある集団に所属したとき、その集団のルールに沿って生きること、さらに人間という感情や文化を有する生物にとっては礼節やマナーと言った処世術も必要になります。これが人間にとっての集団で生き延びる術とも言えます。これが巡り巡って「嫌われる」=「生き延びれなくなる」という図式になり、「嫌われるのが怖い」となるのです。

 

 ここまでの話だと、何だか冒頭で述べた「嫌われても問題ない」という話と矛盾してしまいますが、そうではありません。まず、勘違いしないでほしいのは「嫌われても問題ない」というのは、「『他人から嫌われるのが怖い』と思ってはいけない」という話ではないということです。

 

 むしろ・・・

『他人から嫌われるのが怖い』というのは自然なこと。

・・・と言いたいのです。

 

 この前提を知っているのとそうでないのとでは、人生を生きるうえでの気楽さは大きく変わります。自分を強くしようと思って「嫌われるのなんて平気さ」というよりも、「他人から嫌われるのは怖い・・・でも、私は私の考えをもって生きていきたい」と思うようになると、世間や他人の評価や視線を気にするのか、それとも自分が成し遂げたいことや、やりたいことに邁進するのかの軸ができていきます。そこでもし、他人から嫌われて集団からはみ出るかもしれないけれど、失敗しても馬鹿にされても自分の道を進んでいこうとするならば、後は嫌われることを見ずに、自分で指した方向に一心不乱に進むだけです。

 ふと「嫌われるかも」「自分がやっていることは変かも」と頭によぎっても、それも普通のことです。人間はヤジロベーのようにゆらゆら揺れ動くのです。しかし、ヤジロベーがヤジロベーとして成立するのは、真ん中に軸があるからです。その軸さえしっかりしていればブレブレに揺れても良いのです。

 

 私たちは「嫌われる」ということに敏感な生き物です。それは当たり前のことです。しかし、嫌われても問題ないのが実際ですし、嫌われて問題になってもリカバリーできるのも人間です。一方、嫌われたまま疎遠になることもあります。「嫌われる」ことに恐怖するのは良いですが、嫌われたときもまた、「嫌われるのも当たり前の話」と思うしかありません。

 

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。