アラフォー童貞は〇〇と考える

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長文を読む機会があったほうが良い理由

アラフォー童貞のODです。

 

 現代ではメールやLINEといった短い文章でコミュニケーションをとる機会が増えております。ちょっとした用件ならば電話するよりも簡単ですし、メッセージを受け取った相手の都合に合わせて読むこともできます。私も仕事やプライベート問わず、これらのツールを活用しております。また、私自身はやっておりませんが、ツイッターなどのSNSでも自分の考えを短い文章で発信することができます。人によっては、(私のような)長文で伝えようとするタイプではできない、短い文章で多くの人がハッとさせたり、楽しい気持ちにすることができる人もいます。

 このような短い文章によるコミュニケーション方法は、どんどん広がっていくのでしょう。そして、人間たちは電子媒体を通じて、短い文章によるコミュニケーションの割合も大きくなっていくでしょう。

 

 しかし、個人的には長文にも慣れておいたほうが良い、と考えております。そしてそのためには、「長文を読む」という機会を、日常の中に意図的に設けておいたほうが良いのです。

 

 というのは、どんなに人間同士のコミュニケーション方法が短い文章で完結できるようになってきているとはいえ、やはり社会を構成しているものは長文がほとんどです。そして、社会に出る前に学校という場で学ぶものの長文がほとんどです。人間同士の直接のやり取りは短くても良いけれど、物事をあり方をちゃんと知ろうとするならば、それらは短い文章でまとめるのは困難を極めます。

 確かに現代ではインターネットを通じて、多くの専門家や有識者、何なら一般の人であっても、すぐには理解できそうにない難しい知識などを、かみ砕いて分かりやすく説明してくれております。それはホームページやブログ、動画などを用いて、視覚的かつ興味をそそるようにできております。

 しかし、このように他人がかみ砕いて説明してくれたものというのは、初めて取り組むきっかけになったり、自分が躓いているポイントを理解することには有効ですが、核心的なことを自分の身とするには不足しているという弱点があります。

 例えば、知識や技術を身に付けたいと思って動画を見たとしましょう。・・・それだけで知りたい知識は身に付くでしょうか? おそらく、ポイントは何となく分かるでしょうが、実際には手や頭を使ってみないと自分の身として実感はできません。どんなに本を解説してくれている動画を見ても、その本をすべて読んだことにはならないのと同じです。動画をきっかけに興味をもって、「難しそうと思っていたけれど、読めるかも」と思い、その本を買って読んで初めて、その本を読んだということになるのです。解説動画を見ただけで「俺はこの本を読んだぜ」という人がいたら、それは大きな勘違い野郎です。

 

 また、短い文章というのは「単語や文章を省略する」ということで成立している側面があります。つまり、短い文章によりコミュニケーションが通用するには、「省略している部分をお互いに理解していること」という条件が必要になるのです。

 例えば、「あいつ、マジやべー」というメールが届いたとしましょう。ここで、送信者は当然「あいつ」が誰か分かっていますが、受診した側も「あいつ」が誰か想定し、かつ同じ人物を連想する必要があります。そこでお互いの「あいつ」が一致してはじめて、受診した側も「わかる、あいつ、マジやべー」と返信ができるわけです。同様に「マジやべー」の内容も一致していることも必要となります。もしも、送信した側が「同僚のAさん、すごい契約をとってきた」という意味で「あいつ、マジやべー」と送ったのに、受信者が「受付のBちゃん、本当にかわいい」という意味で捉えて返信をしたら、コミュニケーションは成り立たなくなっていることになります。まあ、実際はこのようなことが微々たるレベルで日常にはびこっておりますが・・・。

 

 そして、長文を読む機会があったほうが良いと思う一番大きな理由は、自分が文章を書くときになって「読み手を意識した文章を書きやすくなる」ということです。これは感覚的な話で申し訳ないのですが、本をたくさん読んで、かつ文章をたくさん書いている人というのは、自然とそれまで読んできた本から「あの文章は読みやすかったから、自分も真似してみよう」「〇〇先生は理解しやすい文章構成だったな」ということを吸収し、かつ自分の文章にも活用しております。

 逆に、本などの長文を読む頻度が少ない人の文章というのは、上記の短い文章のコミュニケーションのように、自分は分かっていることを省略したまま内容が進むので、読み手が理解しにくく難解です。また、文章全体として伝えるべき素材は揃っているのに、順番も問題ないのに、何だか全体的に散らかっているように見えるのです。

 

 あくまで本記事は、管理職をしているうえで、色々な報告書を読んだり、外部期間や国からの法制度に係る文書だって読む機会があり、そこで文章の読みやすい・読みにくいというのは肌感覚で感じていることをまとめただけです。

 それでも確信をもっているのは、どんなにコミュニケーションが発達しても、人間同士のやりとりは会話が主体となります。それは、直接の口頭という意味だけではなく、メールでもLINEでも、チャットであっても、自分の想いを伝えようと思うならば、結局は長文になるものです。そうなると、自分の想いを伝えるのは長文になるため、それを伝えるならば、ちゃんと相手に理解してもらわなければいけません。そのときに、読みにくい文章であったら、せっかくの想いも「いや、読みにくそうだから、後で読もう‥」と思われたり、「何を言っているのか分からない‥」となって終わります。それは残念です。

 そして、そんな自分もまた、反対に他人の想いを聞く・読むという機会があるため、そこに対しての耐久力は必要になります。せっかく相手が熱い想いを言っているのに、その文量が長いばかりに理解できないとなったら、それは相手に残念な思いをさせてしまうでしょう。

 

 このように、私の文(ブログ)は毎日長々と書いておりますが、想いや考えを書くと言うのは短くできないものということを実感として知っております。それでも読んでいただける人がいたら嬉しいと思っております。

 

 そのため、私はブログの文末に、次のように書いて締めます。

 

 ここまで読んでいただき、ありがとうございます。