アラフォー童貞は〇〇と考える

アラフォー童貞が仕事、時間、性など考えたことをまとめています。

「与える」ことに疲れたら

アラフォー童貞のODです。

 

私たち人間という存在はとても非力なもので、己の肉体だけで自然界を生き延びることはできません。そこで縄張りに加えて住まいを作って環境や外敵から身を守ったり、衣類を身にまとうことで肉体を守ったり、自分の力のなさを道具を使うことで生存競争を生き延びてきました。

こうして人間は反映していき、そして文化と文明をもって現代に至るなかで、もはや獲物を追いかけて狩りをするという原始的なことはしなくなりました。しかし、どの時代においても変わらないことがあります。それは人間は何だかんだ言っても集団でしか生きられないということです。それは規模の大小はあれど、社会という集団として成立しております。それはどこで生まれても逃れられない事実です。

 

そうした中で大切なのは、他者と共同で生き延びようとする姿勢です。どんなに自分がお腹が空いているからと言って、何もしないでご飯はもらえません。原始時代であれば獲物や木の実をたくさん獲る人こそが価値があり、その人が集団に自分の成果を提供することで評価され、そして今度は別の人が獲物や木の実を獲ってきたならば、自分も恩恵を受け取ることがあります。

 

このような原始時代からの「この間はあなたからもらったから、今度はそのお返しに私もあげますね」というやりとりこそが、時代が変わっても文明社会になっても続いているのが人間という集団の成り立ちです。

 

これはいわゆる「ギブ&テイク」というものです。

日本語で言えば「持ちつ持たれつ」と言ったところでしょうか。

類似の言葉で心理学における「返報性の法則」も同様でしょう。

 

この「ギブ&テイク」において大切なのは、「ギブ」であると言われています。つまり、与えるという行為こそが人生を成功に導く鍵であるということです。実際、歴史上の人物や偉人というのは大抵「与える人」だったと言われています。表面的に見るといいように使われたり、お人好しみたいに思われるのですが、全体像を見てみると、実は与えたことにより最終的に良い結果に導いているのが「与える人」なのです。

もちろん、何でもかんでも手を貸したり、やみくもに物や金銭を差し出しているわけではなく、見栄っ張りなわけでもなく、その人が成し遂げたい目的や人生における軸があってのことです。その一方で「与える人」の大半は純粋な気持ちもちゃんとあり、お返しを貰うことも考えていないのです。

 

・・・と、このように書くと「まるで聖人であり、人格的に立派で、社会的に大きな貢献をもたらすような『与える人』を目指しましょう」ということを言いたいように思われてしまうかもしれませんが、そうではありません。まあ、そういう人になりたければ止めませんが、そこまでの「与える人」を目指すのは(言ってはなんですが)逆に人格が破綻しているとしか言えません。あるいは、よほど人生のおいて成し遂げたいことがあって、自分の生活なんてどうでもよいというレベルの人の話です。

 

私自身、与えることに対して抵抗はありませんし、自分が差し出したもので受け取った人が喜んだり成長してくれればそれで良いと思います。しかし、他人の生活に寄り添い過ぎたり、その人の価値観に合わせすぎた状態で与えると、自分の中で違和感が生じてしまいます。それは自分自身が潜在的に納得していない状態で与えているためであり、そのような状態のまま与えるということをしていると、知らず知らずにストレスが溜まってしまいます。すると、次第に与えるということに疲れてしまいます。

 

与え続けているということは、度が過ぎると自分を擦り減ってしまいます。

 

空腹の状態でご飯を食べようとしたところに、お腹を空かせた人通りかかったらどうするでしょう? 気にせずご飯を食べるというのも1つですし、その相手にご飯を差し出すのも自由です。しかし、それが1回とか稀なケースならば問題ありませんが、1日の中で何回もあったらどうでしょう? さらに数日、一週間・・・なんて続いたら、当然ですが栄養不足で倒れてしまいます。苦しいのに「与える人」であろうと考える人は、結構このようなタイプが多いように思います。いわゆる自己犠牲というものです。

 

こう言っては何ですが、自己犠牲の状態の人から受け取った人は、そのときは悪いなと思いますが、割とその後は気にしないものです。よほどの善人でないかぎりは「あのときの恩をずっと忘れていない」とはなりません。そのときにお礼を言って終わることがほとんどでしょう。反対に、与えた側は割と覚えています。よほどレベルの高い「与える人」でないかぎりは「あのとき、自分が身を呈してやってあげた」とか「あの人が困っているときに手伝ってあげた」という「あげた」ということを覚えているものです。だからこそ、反応が芳しくなかったときに「あれ、あれじゃあ足りなかったのかな」とさらなる自己犠牲に走ることもあります。それこそ、自分がボロボロになっているとも気づかないまま・・・。

 

「与える人」という姿勢は素晴らしいと思います。なるべく、純粋な気持ちで続けて欲しいと思います。しかし、心のどこかで納得していなかったり、心のどこかで見返りを期待しているならば、ちょっと「与える人」のあり方を見直したほうが良いと思います。それは自己犠牲になってしまう可能性があるからです。

また、「与え続ける」ということもやり過ぎない方が良いです。与えるということは自分の中にあるものしか与えられません。そのため、与え続けていると自分の中にあるものが空っぽになってしまいます。たまには自分の中にあるものを見直して、棚卸をしたり、新しいものに入れ替えする期間も設けてみてください。個人的には読書がお勧めです。他人に時間を使うのではなく、自分のために時間を設けてのんびりと1ページ1ページ開いて、自分の心の整理整頓と新陳代謝をすることをお勧めします。

 

「与える」ということで心は満たされることもありますが、なぜか疲れるということもあります。そのようなときは、与えることをストップして自分自身を大切にするようにしましょう。

 

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。