アラフォー童貞は〇〇と考える

アラフォー童貞が仕事、時間、性など考えたことをまとめています。

世間が「嫌い」であっても、自分は「好き」でいい。その逆もしかり。

アラフォー童貞のODです。

 

インターネットで情報を集めやすくなり、かつSNSなどの個人で情報発信ができる時代において、特定の分野やモノ・人などに対して「好き」「嫌い」を共感しやすくなりました。例えば、「こんなの好きなのは自分だけかも・・・」と思っていたら、意外に自分以外にも好きだと思っている人がいることも分かります。あるいは「これがムカつく!」と思ったことに対して検索すると、決して数は多くはないけれども、同様の感情を抱いていることを知ることもできます。

一方で「自分がこんなに好きだから(嫌いだから)、きっと自分以外にも好き(嫌い)に思っているに違いない」と思って、スマホ片手にインターネット上の情報を漂ってみるものの、自分が望んでいるような情報が得られないこともあります。

 

このように書いている私自身、よくあります。それはインターネットというデジタルの世界だけでなくリアルの世界でもあります。例えば、職場の人たちは話したくないと思っているお客さんであっても、私は話していると楽しいと思うお客さんもおります。反対に、周囲が楽しそうに話す業者さんであっても、私は何となく好きになれないと感じることもあります。

「好き」「嫌い」の例えとは少しズレますが、専門書や知識を修得する目的の本を買ったときに、何だか読みにくい・頭に入りにくいと感じたときに「もしかしたら、ネット上の評価も良くないかも」と思って、某通販サイトのレビューを見てみると「こんなに分かりやすい本は初めてです」「同じテーマを取り扱っている本はたくさんありますが、これが一番です」という高評価が多いと、心の中で「あれま」とガックリしてしまいます。(まあ、これは私の理解度や知識量が悪いだけの話ですが・・・)

 

このように、世間や周囲の「好き」「嫌い」といった評価と自分が抱いている評価は異なることがある、と思ったほうが良いのです。そして、そういうことがあったとき、自分自身の感覚がおかしいと思ったり、世間の考え方が間違っている、といった判断もしなくていいのです。

これはよくある「人それぞれでいい」という話ではありません。世間の評価と自分の評価が違うという事実がある、というだけの話です。そこには、世間と自分の違いや差に対して「善と悪」という区分もありません。

 

例えば、自分が恋焦がれている異性がいたとします。その人が「料理ができる人って素敵」と言っていたのを耳にして、今までやらなかった料理を練習しようとする努力のは良いことだと思います。意中の人の考えや好みに近づこうとするのは、至極当たり前のことです。

しかし、その人が「料理は濃い目が好き」「塩気が多い食べ物がいい」という言葉を耳にしたとき、自分は薄味が好きだったり健康管理の一環で塩分控えめにしているとしたら、そこで自分も無理に好きな人の好みの味には必要はありません。好きな人は濃い味や塩分が多めの食べ物が好きであり、自分は薄味や低塩分の食事スタイルである、という事実があるだけです。そのままで良いのです。「薄味好きな自分はダメだ」とか「塩分多めの食事スタイルに慣れよう」なんてしたら、体を壊してしまい恋愛どころじゃなくなります。自分は自分で良いのです。

 

このような考え方は、恋愛や食事の好みだけではありません。人間関係相手でも、仕事の考え方でも、趣味でも、生き方でも同様です。そして、色々と聞いたり調べたりした結果、その価値観や好み・嗜好などが自分一人だけの考えであったとしても、落ち込んだり反発したりする必要はありません。極端に人に迷惑をかけたり、礼節に背いた考え方でなければ、私はそのままで良いと思います。

そのうえで、もしも「ああ、あの人は自分と嗜好が違うな・・・でも、試してみても良いかも」と思ったならば、それはそれで良いのです。そして、そこから「ああ、こういうのもアリだな」とか「自分の考え方は違っていたんだな」と気づいて、自分の中の評価や嗜好を変えるようになっても良いのです。もしも、他人から「前は〇〇が好きって言ってたのに、今は嫌いなの?」と指摘されても、臆することなく「ああ、そうなんだ」と返答すればいいだけです。別に自分の価値観の変革を他人にあーだこーだ言われる筋合いはありません。「好き」「嫌い」の基準が変わったという事実があるだけです。

 

「自分の好き(嫌い)」は「世間の好き(嫌い)」とは限らないこと、一方で「自分の好き(嫌い)」は「世間のすき(嫌い)」と違っても問題ないこと、とご理解いただければ幸いです。

 

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。