アラフォー童貞は〇〇と考える

アラフォー童貞が仕事、時間、性など考えたことをまとめています。

「〇〇される側にも問題がある」というバグった考え方

アラフォー童貞のODです。

 

世の中には不条理な目に遭ったり、理不尽な思いをすることがあります。

ある程度は覚悟していても我慢できないこともあります。

時には集団の中で特定の1人が標的にされることもあります。

 

多くの人はこのような出来事を見聞きすると、そのような目に遭っている人を憐れんだり、腑に落ちないことに憤りを感じたり、正義感から怒りを露わにしたり、目的があれど我慢している人に手を差し伸べることもあります。標的にされている特定の人に何とかしてあげられないかとも考えるでしょう。

 

一方、次のようにも考えます。

「〇〇される側にも問題がある」

「そのような目に遭うのは、その当人にも原因がある」

 

客観的に誰もが明らかにおかしいと思えるのに、上記のような同情心や慈愛の精神もある一方でこのような考えをする人は一定数おります。しかし、このような考えを口にする人は性格が悪いわけでも、心が歪んでいるわけでもありません。

 

このような人たちも、目の前で大変な目に遭っている人を見たときは最初は「かわいそう」とか「ひどいことをされている」とか「何とかしてあげたい」と思います。しかし、あまり同じ対象が繰り返しひどい目に遭ったり、極端に理不尽な目に遭っているのを見ていると考え方が変わってしまうことがあります。

 

これは人間の防衛反応であり、まず「同じようなことが自分の身にも起きたらどうしよう」と自分自身に置き換えて考えてしまうのです。しかし、このような出来事が自分に起きないという理由を探したときに「これは特定の人の問題であり、自分にはその要因はないはず」という回避点を探し、それが結果として「この人だけの特定の問題がある」ということから「〇〇される側にも問題がある」となるのです。つまり、自分は大丈夫という証明を自分なりにしているわけです。

 

心理学の実験においても、フィクションとはいえ、ひどい目に遭っている人の映像を被験者に視聴してもらうと、「かわいそう」「許せない」という反応の一方でやはり一定数は「このような目に遭うの当人にも問題があるのでは」と思うそうです。しかし、改めてお伝えしますと、このような反応は防衛反応であり性格が悪いわけではないのです。

 

・・・このような記事を書いているからといって、理不尽な目にあったり標的にされている人がいることを放置していいとうことでも、そのような人たちを目の当たりにしている人たちは悪くないと言いたいわけでもありません。ここで「〇〇される側にも問題がある」という言い分は正しいのか? を考えたいのです。

 

結論を言いますと、「〇〇される側にも問題がある」は成立しません。

これは上記のとおり防衛反応であるものの、ハッキリ言えばバグった考えです。

 

それは「〇〇される側にも問題がある」という「〇〇される側」である当人は大抵の場合、なぜそういう目にあっているのか分からないからです。しかも、「〇〇される側」である当人を取り囲んでいる周囲ですら、その問題点や理由が不明瞭なまま〇〇をしているわけです。

 

こうなるのと、「〇〇される側にも問題がある」の「〇〇される側」は、よく分からないまま周囲から直接的・間接的、物理的・間接的にダメージを追い続けることになります。周囲も不明瞭なのに、その当人に何かしらの問題があると決めつけて当人がダメージを受け続けている状況を容認しているのは、それこそ悪の所業ではないでしょうか?

 

それでも、「〇〇される側」の中には、ごくまれに「私が何かしたって言うの?」「ハッキリ言ってよ!!」と反論する人がいます。このような事例は少ないと思いますが、決して当人が「ゴメン! みんなの言うとおりに改めます!」となって、周囲が「もう、次からは気を付けてね。でも、これからもよろしくね」・・・という展開にはまずなりません。

なぜかというと、当人はやはり理由に納得できないでしょうし、周囲は周囲で「〇〇される側に問題がある」と決めつけて、かつ「〇〇してもいい」「〇〇する対象」として認識してしまっているため、これを覆すことは困難と言えます。

また、いわゆる同調圧力とやらで「○○される側に問題がある」と〇〇しないと、自分も同じような目にあうという恐怖心もあるのでしょう。(フィクションでも)ひどい目に遭っている人の映像を見ただけで自分に置き換えて不安になるのに、それが現実の身近で起きているのであればなおさらです。

 

「〇〇される側にも問題がある」という言葉が出ることには、当然「〇〇をする側」もいるわけですが、問題があるのはむしろ「〇〇する側」のほうだと思います。もちろん、きっかけや理由はあるのでしょうが、気がつかないうちに攻撃対象を定めてしまい、それを実行に移しているということは、別の理由があるのでしょう。そして、その理由の分類は不安にあると思われます。不安だから自分以外の誰かを攻撃しないとやっていけないわけです。

 

これは極論かつ個人的な意見となりますが、「〇〇される側にも問題がある」というのは、「〇〇する側に問題があるのでは」と入れ替えてみると、意外に根本的な問題点が見えてくるのではないでしょうか?

 

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。