アラフォー童貞は〇〇と考える

アラフォー童貞が仕事、時間、性など考えたことをまとめています。

「努力」とは何か? 適当にやったのに高評価を得られたときの考え方

アラフォー童貞のODです。

 

努力がすべて報われるとは限りませんが、報われるためには努力が必要です。

では、どのくらいの努力をすればいいのかというと、それは分かりません。

現実ではRPGのように「次のレベルまで、あと経験値XXX」なんて表記は出ませんし、「レベルが上がった」「成果を出した」というのも個人の感覚や価値観、状況やタイミングによって変化します。他人視点からすると正反対の見解かもしれません。

 

こんなことをグルグルと考えていると、何だか努力なんてしても意味はない・・・そんなことを考えてしまうものです。このように書いている私もまた、努力の無意味さを感じて力が入らなくなることはあります。

もちろん、基本的には努力は必要だと思います。努力というと大袈裟な感じがするならば、準備や計画、プロセスなどと言えば伝わるかもしれません。いずれにせよ、何かしらの目的に応じた労力と時間はかかることは共通しております。

 

では、努力とは何でしょう?

 

学校教育を受けている期間は努力すればテストの点数や成績表、学年順位、偏差値といった数値として分かりやすく現れ、自分のレベルや立ち位置が実感できます。しかし、多くの場合は努力したからといって、それが目に見える形や実感できるように現れることは少ないです。テストでは「✕」をつけられたところは改善点であるという見方ができますが、仕事などでは何が「✕」なのかすら分からないまま、手探りで進むことが多いということに気づかされます。

しかし、何が「✕」か「〇」かが定まらなくても、自分の中で「これは間違っていたかも」「あれは良かったんだ」という何となくの基準は作られていきます。また、周囲から「これはないわ」「もっとキチンとやってよ」とか「あれ、良かったよ」「先方も喜んでいたよ」といった評価からも何となくの合否は見極められるものです。

 

厄介なのが「要因が分からないのに、良い成果が出てしまったとき」です。これは場合によっては「特に努力したつもりはないのに、周囲から高評価」ということや、「時間がないから適当にやったのに売れている」ということもあります。・・・こうなると、余計に努力というものが何なのか分からなくなります。

 

このようなとき、「いい感じに力が抜けて、結果的に良い成果が出た」とか「努力した感じがないのは、これまでの積み重ねがあったからだ」などと前向きな見解をすることがあります。特にスポーツ選手やミュージシャンなどの各分野で活躍されている人たちも、このような要因不明の成果が出てしまったと現象に対しては「自然に体が動いていた」「歌詞や曲が(頭に)降りてきた」などとコメントをするものです。

 

しかし、個人的には「特に努力したつもりはないのに、うまくいってしまった」という要因不明な成功に対しては、最近では次のように思うこともあります。

 

「そういうこともある」

 

つまり、自分の努力とか全く関係のないところで何かしらの別な力が働いたり、意図せずいつもと違う手法や視点でやったことが功を奏したり、短時間でやろうとしたからこそ集中して取り組めたり・・・と、色々と要因は思いつけど、特定ができないままに周囲が認める成果を成し遂げてしまうことがあるのです。

 

プロフェッショナルでもない私の考えで恐縮ですが、実際、熟練者たちのインタビューでも「うーん、あれが何でうまくいったかは、今考えても分からない」という発言はあります。プロフェッショナルの人たちも成功要因の分析はするものの、謎のまま終わることだってあるでしょう。

 

確かに努力をすることで成果という形で報われることはあります。しかし、適切な努力というものはありませんし、適切な努力によって確実に求める成果が出るという保証もありません。営業マンが訪問件数を数多くこなせば売上につながるならば、世の中はトップ営業マンばかりです。どこかで個々の成功要因を掴んだり、本人も自覚していない努力があってこそ生み出されることもあるのです。

一方、努力によるものか他の要因かも分からないまま、なぜか成果が出てしまうことでもあります。努力と成果は密接であるように見えて、割と不確定要素が多いのです。世の中にはまだまだ未知の現象があるように、10個の成功のうちの1個くらいは「なぜか成功したか分からない」という事態があっても不思議ではありません。反対に言えば、成功確実だったのに何故か失敗したという事例だって多々あります。これも後世の人たちが失敗学などで検証はするものの、未知のままの現象だってあります。

 

「何故?」を考えることは大切です。しかし、時には考えても現時点では不明なこと、その先ですら解明できないこともたくさんあるため、これまでのように努力をする姿勢は継続しつつも、努力不明で適当にやったにも関わらず得られた成果へは「こういうこともある」と受け止めて次に進むことも、時には必要なのです。

 

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。